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第81話【模型ライフ・鉄道の日に寄せて】
第82話【夜行列車・魅惑の乗車体験記】

   
 

第81話【模型ライフ・鉄道の日に寄せて】

昨日は今年半年間に渡って開催された「大阪・関西万博」の最終日でした。70年万博には、当時中学2年生で九州在住だった境遇ながらも3度訪れましたが、残念ながら今回の万博には体調不良と相変わらずの忙しさのため機会を逸し、遂に足を運ぶことは叶いませんでした。

70年万博を体験した身としては、情報にまみれる日常が当たり前・あらゆるエンターテインメントが溢れ返る今日で、果たして万博は成り立つのかと懐疑的でしたが、どうやら大事な効能を忘れていたようで、残念ながらその場で体験することは出来ませんでしたが、それでも日々発信された万博の様子を目にする度に、異なる文化に触れる・理解する人的交流こそに開催することの意義深さを感じた次第です。

そういえば70年万博では、小学生達が会場で初めて目にした外国人(一般人来訪者)にサインを求める珍事が起こり、神戸に縁のあった自身は子供の頃から、例えば北野(今と違って静かな住宅街でした)での金髪の女の子がコリー犬を散歩させる姿だったり、元町では寄港した外国船の船員さんたちの買い物姿など、外国人は日常に溶け込んだ存在でしたので、この珍事は驚きでしたが、裏を返せば1970年はまだそんなドメステックな時代だったことに気付かされます。

70年万博では、見た事も無いアフリカ諸国の民芸品などの印象が今でも残っていて、閉幕後は一部が吹田にある「国立民俗学博物館」に移設されたので、その後も時々見に行ってましたが、 今回の万博も、ビザも取得出来ないような国からの出展もあって、今の子供達がその国の人々と交流した体験がその先の未来に、どう影響を与えるのかがとても楽しみです。
考えてみると、普段から人との距離が近い・近すぎると揶揄もされてしまう関西の風土は、案外万博開催に向いているのかも知れません。

それはさておき、本日は「鉄道の日」ということで、鉄ちゃんにとっても普くめでたい日であります。

以前も申し上げましたが、自身は昨今の「○○鉄」という表現には、巨大なシステムで奥が深い鉄道を愛でる愛好家は、眺めるのも乗るのも写真を撮るのも音を撮るのも全てを経験した自身もそうであるように、本来なんでも好きなはずなのに、何故ジャンルを限定するのだろう?と、それはそれとして、発信者自らも受けて側も「○○鉄」と名乗る一方で、時として極稀にですが、他を否定するようなニュアンスが感じられることもありますので尚更に、(あの番組も、六角精児も好きですが)「呑み鉄」てなんやねん、そら呑むやろ、「駅弁鉄」て、それはもう鉄でなくてもよかろうと、やたらと「○○鉄」を耳にするようになって久しい今でも、相変わらずに違和感は拭えません。

そんな独り善がりは兎も角として、単に得意ジャンルを示す便利なフレーズであると、極力受け流して平静を装うことに努めておりますが、自身の記憶には無い幼少期にひとりでフラフラと家を出て、西鉄北九州線が行き交う交差点前の百貨店の玄関先にへたりこんで、電車を眺めた事実の通り(まさかの移動距離だったらしく親は相当慌てたようです)、生まれながらの鉄道好きの自身も、世間で言うところの「模型鉄」になるのでしょうが、長年モデルワークを続けておりますと、車輌であれば何故そのカタチなのか・サイズなのか・色なのか・設えなのか?、実車は何処を走るのか?どんな運用なのか?線路状況は?信号システムは?などなどと、制作の過程でいつも、突き詰める必要のある事柄が、好むと好まざるとに係らず、無限と言えるほどに表面化する現実に気付かされます。

本腰を入れればの話しではありますが、結局、大変広範囲に渡る鉄道に係るお勉強・おさらいを都度強いられるという、これが鉄道模型趣味の最大の特徴と言えるのではなかろうかと日々感じているところであります。

只今次期製品となるKATOさんのキハ82系向け製品を開発中ですが、色々と見直して、シールパーツオンリーであったこれまでの表皮シリーズから少し離れ、シールパーツとパネルパーツを組み合わせた製品を予定しております。年内にリリース出来ればと考えておりましたが、このペースで行くと来春あたりになりそうです。


神戸市街地を山側で東西に貫く「山手幹線」と、古くから有馬への物流を支えた南北に走る「ありまみち」が交わる近所の交差点の道端にご当地らしい赤御影石で拵えられた道標(みちしるべ)がひっそりと佇んでいます。

北へ向えば「白鶴美術館」、南へ下れば「国鉄・住吉駅」
えっ!国鉄?
その前はきっと「省線・住吉駅」だったんでしょうね。

ひび割れは震災の痕跡なのかもですが、高価な赤御影石の故なのか、今もこのままの姿で佇んでいて、自身のお気に入りのスポットでもあります。

撤去されませんように!
(2025.10.14 wrote)

 
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第82話【夜行列車・魅惑の乗車体験記】

今年6月末に寝台特急「カシオペア」で一世を風靡したE26系寝台客車がついに完全引退したそうで、幅に高さにと室内の有効空間を目一杯に確保するのが常套だったそれまでの寝台車設計思想に一石を投じて、ダブルデッカー仕様を踏まえ、前後台車間での室内有効長に着目して(曲線部での車体干渉回避のため)あろうことか車体幅(20ミリも短縮)を犠牲にしてでも、前後台車を定位置よりも車端に追いやり、2階建て個室寝台が収まる十分な空間の確保に振り向けた設計は、従来よりもオーバーハングが短縮されて当然乗心地にも寄与しますし、電気指令式空気ブレーキだったり密連だったりと、抜かり無く快適性を追求した寝台専用客車の集大成と申せます。

シルバーの地色にカラーストライプをあしらったエレガントクールな外観は、昭和世代の自身にとってはチャラチャラし過ぎていて好みではありませんでしたが、開発当時、老朽化していた24系「北斗星」客車の補完の色合いが強かったからなのか、異例の1編成のみの製造にとどまって、その後の後継車開発の動きもなく、自身も乗れずじまいのまま終焉を迎えてしまい寂しい限りです。

観光列車・クルーズトレインの類いを除けば、夜行寝台列車の運行は実質的に285系「サンライズ瀬戸・出雲」のみと絶滅に等しく、今日の若者達の間で「ヤコバで行く」などというフレーズが日常使いされる世相が示す通り、かつての長距離「夜行列車」達が担っていた使命は、今や高速バズに取って代わられた模様で、若者を中心とした宿泊を省いた弾丸旅行だったり、単身赴任のお父さんの週末帰省の足としても定着した様は、致し方ないことだったとはいえ、これもまた、社線間の調整がより複雑化した国鉄分割民営化の少なからずの弊害だったのかも知れないななどと憂いつつ、この衰退加減を目の当たりにすると尚更に、なんとも悔しい思いが致します。

鉄道好きにとりましては間違いなく、非日常の旅気分を味わい尽くせるのが、かつての元気だった頃の夜行列車たちで、自身も乗車する度に魅了されまくっておりました。

3歳?頃に乗車した急行「雲仙」のマロネ29形(3等級制時代の2等寝台C下段)を皮切りに、これまでに乗車した夜行列車を改めて書き出してみますと(順不同です)、急行「ひのくに」(オロネ10形上段・スハネ30形中段)、急行「天草」(オロネ10形上段・スハネ16形中段)、急行「阿蘇」(オロネ10形上段・オハ46形)、特急「あかつき」(ナロネ21形上段・オロネ14形上段・オハネ14形中段・オハネ15形上段・オハネ25形上段・オハ14形)、特急「明星」(サハネ581形中段&上段)、特急「みずほ」(スハネフ14形中段)、急行「銀河」(オハネ12形中段)、急行「かいもん」(オロ11形)、急行「桜島」(ナハ10形)、急行「べっぷ」( オハ12形)、特急「サンライズ瀬戸・出雲」(サロハネ285形シングルデラックス・サハネ285形階下シングル)となります。

以前記したかどうかですが、若い時分から壮健とは言えなかった亡母は、どうやら乗車時間が「3時間を超えたらロザロネ車へ」の「3時間ルール」なるものを内包しておったようで、お陰で母親の里帰りに同伴していた子供時代は、ロネ車にありつけるケースが多く、今にして思えばラッキーな家庭環境だったと云えますが、東京発着の「九州特急」が先行した関係で縁遠かった20系ブルートレインのナロネ20形や22形・更に後々14系や24系などの改造で続々と登場した所謂個室寝台を利用するチャンスは流石に訪れませんでした。

ようやく個室寝台のお世話になるのは、会社勤務時代の東京出張の度に、新幹線代に自腹を上乗せして好んで乗車した285系からとなり、考えてみるとこれが未だに直近の夜行列車体験という、なんとも寂しい有様です。

お気付きの向きもおありかもですが、電車寝台に乗車する場合は敢えて付随車を選択しておりました。鉄ちゃんの嗜好としてはM車に乗ってモーター音を楽しむというのが(私も勿論好きで阪急電車ではM車を選択します)一般的かと思いますが、実はモハ20系・101系電車に始まる国鉄形のMT46形(そしてMT54形)モーター+中空軸カルダン駆動が奏でる、もわっとした湿り気を感じるサウンドが、どうも耳障りで余り好みでは無いためと、如何に静粛性を担保しているかの確認のため、好んで付随車を選択していた次第です。

数ある夜行列車の乗車体験を記すとなると、あれもこれもと膨大となることが想像されますので、この度は思い出深いエピソードを中心に、オムニバススタイル風に記述してみたいと思います。

< 昭和30年代・夜行列車の始発駅にて >

熊本市へ転居した後の昭和38年の夏、亡母の里帰りで急行「ひのくに」へ乗車します。
「ひのくに」の始発駅となる熊本駅の当時の姿は、九州新幹線の開通と高架化にて、沢山の思い出が詰まりまくっていた機関区もろとも跡形も無く消え去りましたので、記憶を辿るしかなく、確か建屋の中央あたりの玄関フロアの先に西を向いた改札が並んでいて、改札を通ると下り列車に使われていた1番線ホームが広がっていました。
同じフロアの南東側の端にあり、三角線からの列車や阿蘇や大分に向かう列車が発着する頭端スタイルの「豊肥0番」ホームもなかなかに趣がありました。

急行「ひのくに」の発車時刻は19:15。改札を通ると左手に、島式の2番線・3番線ホームへアクセスするための跨線橋があって、ワクワクしながら階段を登って「ひのくに」が出発する2番ホームへ向かいます。

お目当ての「ひのくに」は既に入線していて、昭和39年から始まる客車の塗装色変更前の、まだ真新しいぶどう色2号を纏う軽量客車が連なる車列は、どこかヨーロピアンな美しさが漂っていて、その後も忘れ得ぬ原風景となりました。

乗車したのはオロネ10形、昭和36年に新製された寝台車ですからまだ新しく、750ミリ高の低い列車線ホームから、出入口台ステップに足を掛けてよいしょとデッキに上がり、車内に入ると既に寝台はセットされていました。
この時刻以降に発車する夜行列車は、後々も寝台セット状態で乗客を迎えていて、少し早い夕方の時刻に出発する「はやぶさ」「みずほ」「阿蘇」や「天草」の寝台はセットされていませんでした。

翌朝8:43神戸着、所要13時間28分に及ぶ母親と私と弟の3人旅の始まりです。客室へ入ると絨毯敷きの中央通路の両脇に、緑色の寝台カーテンで仕切られた2段寝台がレール方向に並ぶ所謂プルマン式の車内は、当時写真でしか見た事が無くて憧れだったナロネ21形のインテリアを思い起こさせ、天井面は抜かり無く有孔パネルが使われていましたし、パッと見の違うところといえば、住宅の洗面所で良く見かけた照明器具に似た安物臭い乳白カバーの付いた室内蛍光灯が中央通路上の天井に2列に並んでいるくらいなものでした。

ナロネ21形を雛形に、昭和36年に急行用寝台車として登場したオロネ10形は、床下のDGで独立電源を確保して冷房が完備されていたり、客室側窓は遮音の効いたハメ殺し窓だったり、台車は20系客車のTR55形をベースとしたTR60形空気バネ台車だったりと、今ではありふれた装備なのですが、空調も固定窓も空気バネ台車も、当時は20系客車や特急形電車・気動車でなければ享受出来ない極限られた最新の装備でしたので、オロネ10形への乗車は、これらの快適装備についての初の体験でもありました。

窓の開かない客車に乗車したのもこの時が初めてで、ホームの喧噪も遠くに聞こえる不思議な体験でした。下段寝台に母親と弟が、私は寝台梯子を昇って上段寝台に潜り込みます。
憧れのナロネ21形同様に、上段寝台にも外を覗けるシャッター付きの小窓が装備されていて、これが急行形ロネ車では初となる装備だった筈で、この有り難い小窓のお陰で一晩中存分に車窓を満喫することになります。因に下段寝台で母親と添い寝の幼稚園児だった弟は、側窓カーテンと側窓の間に身体を滑り込ませ正座して、睡魔に負けるまで車窓を眺めていたようです。

オロネ10形に連なる最後尾のマニ60形の周囲では、ホーム上を今ではもう忘れ去られたに等しいターレ(ターレット・ターレットトラック)がバタバタと、荷物を搭載した数台の台車を連ねてくねくねと慌ただしく往来していて、振り返ると安全の担保などさて置かれたカオスなプラットフォームが当時は日常だったことが思い出されます。

発車時刻が迫ると「急行ひのくに大阪行き間もなく発車します」の駅アナウンスとともに、今では殆ど聴かれ無くなった(今で言うところの非常ベルの音色に近い)本物の鐘をジリジリと打ち鳴らす発車ベルが、けたたましくそれも今思うと割と長めに断続的に鳴り響いていた覚えがあります。

幹線とは名ばかりの当時はまだ単線・非電化の線路上に位置していた熊本駅ですから、非電化路線の切り札としてサン・ロク・トオで登場していた新鋭キハ82系の就行(「みどり」)も翌年の予定でしたので、発着する優等列車といえば、東京行き「はやぶさ」「みずほ」「桜島」「霧島」、名古屋行き「阿蘇」、京都行き「天草」、大阪行き「ひのくに」「しろやま」と、特急2往復・急行6往復と数えるほどだっただけに、発車ベルの長さには意図せずとも特別感の演出が加算されていたような気が致します。

発車ベルが鳴り止むと、自動ドアなど皆無の客車達ですので駅員の安全確認に暫く間があって、いよいよ発車となると牽引機の真横に設置されていた発車ブザーの合図がビーッと鳴り響き、間髪入れずに汽笛一声、列車は機関車に引かれておもむろに出発して行きます。電気機関車の時代になってもこの儀式は少なくとも昭和40年代の間は続けられていたと記憶しております。

当時の「ひのくに」の牽引機は、東海道を追われ電化の進捗する山陽路でも余剰となって九州島内にたどり着いた軸重の嵩むパシフック型大型蒸気機関車C59形【熊】でした。鹿児島本線の熊本以北は甲線でしたので、電化されるまでの僅か数年ではありましたが、私の大好きなC59形の活躍を間近で見届けることが出来ました。

C59形による「ひのくに」の牽引は、当時は高架化・新駅の建設が佳境ながらもまだ地上駅だった博多駅までの区間で、以前もコラムでお話した通り、加速から巡行に入るとほどなくして、C59形牽引の証しだった緩やかな前後揺動が始まります。

オロネ10形の乗り味は、それまでの乗車体験とはやはり次元の違うレベルでした。

当時の鹿児島本線熊本以北は大型蒸気に対応した良好な保線環境が保たれていた(事実電化後は、列車頻度の低い博多以南の保線状況は悪化しました)側面もあったのでしょうが、当りの柔らかな空気バネ台車の滑らかな乗り心地は大したものと痛く感動致しました。

車内もとても静かで、特に床下のDGユニットに対する徹底的な遮音性能に驚かされました。この時の体験があったために後年客車床下にDGを搭載して電源分散方式で登場したニューブルートレイン14系寝台車のスハネフ14形に乗車した際に体験した、排気量の差異はあれどもディーゼルエンジン直上の(運悪くそこでした)会話も聴こえないほどの想定外の五月蝿さには、これが特急寝台車なのかと落胆しまくり、乗客にとって結局寝台幅が広がっただけかいと、それはそれで有り難かったのも事実でしたが、緩急車の顔は急行形12系客車の類似と風格に欠け、飾り帯も3本から2本に減って、趣味的にも大好きだった青15号色を捨てた外観でしたので、素直には喜べない新型客車の登場だったと、今でも思うところです。

なにより20系では優等客車と隣り合う故に特別な配慮を見せたマヤ・カニの電源車も・キハ81形やキハ82形・キハ181系・モハ20系から583系までと、様々に一貫して続けられた電源騒音に対する配慮思想は、星晃さん退任後、お財布事情があったにせよ明らかに軽んじられる傾向が見て取れていた「国鉄車両設計事務所」は、ついに越えてはならない一線を越えてしまったことを実感した次第です。

熊本を出発し、大牟田、久留米、鳥栖と停車しながら、21:32に博多駅に到着した「ひのくに」は、5分停車の間に、牽引機をED72形【門】交流電気機関車に交換します。
その後、関門トンネル区間はEF30形【門】交直流電気機関車、下関からはC62形【関】蒸気機関車、広島から大阪まではEF58形【宮】直流電気機関車で、セノハチの補機は運用が始まったばかりのEF59形【瀬】が担当した(貨物列車の補機は依然D52形)時代でしたから、乗車中時折聴こえて来る機関車の咆哮も、汽笛・ホイッスル・汽笛・ホイッスルと変化する様もまた実に楽しいものでした。
加えて、始発を出るとほどなくして始まる、途中停車駅と停車時刻を案内するカレチのアナウンスの最後には「この列車は博多まで蒸気機関車です」と、乗客を気遣うメッセージが添えられた、そんな時代でした。

< 昭和30年代夜行列車・心に残る車窓風景 >

あれこれ記述してみたいと思いつつ上手く行かないもので、文才の無さを憂いつつ結局急行「ひのくに」オロネ10形上段寝台の小窓からの車窓風景を軸に、あと少しばかりお話を進めて参ります。

夜行列車の車窓風景といえば先ずは、様々なシーンで展開される所謂夜景がハイライトといえますが、それは後ほどお話しするとして、道中の所々で里山の農村地帯を通過する折に印象的だったのが、ポツポツと点在した民家に灯る裸電球の灯りでした。灯りを目で追う度にぼんやりと思うことがありまして、それは人里離れた民家の灯りの下にはどんな団欒があるのだろうなどとと想像しながら車窓を楽しんでおりました。
いつぞやのことだったか、テレビ番組に出演していた鉄ちゃん芸人の吉川くんが、子供時分に北斗星で旅をしたとき、全く同じ話しを、印象的な光景として挙げていたのを聞いて、世代は移り変わっても、鉄ちゃんの感覚は案外普遍的なのだなと、妙に感心した次第です。

当時の鹿児島本線熊本ー博多間は、久留米までの電化南進によって、久留米ー山陽本線小郡(現、新山口)間で421系交直流近郊電車が運行を開始していましたので、途中駅で停車中の421系を見かけると、九州島内にもやっと3扉セミクロスシートの近郊形電車が走り始めたかと感慨深かったです。

加えて当時は数区間での複線化工事が進捗する段階で、基本的に博多から先でなければ下り列車とのすれ違いも望めない単調な単線区間が続きましたので、鉄ちゃん的には時折の踏切り通過シーンもなかなかに楽しいイベントでありました。
まだ踏切り警報音のほとんどが、実際に鐘を打ち鳴らす「電鐘式」で、極稀に置き換えの始まっていた「電子音式」に遭遇すると、初耳のその柔らかな音色に魅了され、その後の旅情の1ピースに加わりました。

博多駅に到着し5分停車の間にC59形【熊】からED72形【門】に機関車交換されて出発した「ひのくに」は、快速を飛ばして福岡の街並を駆け抜けて、1時間程ひた走った先の「遠賀川」にかかる橋梁を渡ると、幼少期を過ごした思い出深い北九州地区に入り、水巻、折尾、黒崎、八幡と通過して、22:48に小倉に到着します。

自身の原風景とも言える、このあたりの明治以来の産業を背景として発展した、幾条にも並走する特徴的な線形の齎すレールの輝きは大変に印象深く、特に撮影地としても有名な「枝光の大カーブ」は圧巻で、列車の先頭で奮闘するED72形の勇姿が見えると大変興奮しましたし、進行方向左手では、夜間も稼働する圧倒的なスケールの八幡製鉄所、その奥のライトアップに際立つ赤い吊り橋「若戸大橋」と煌めく夜景の連続で、日常であれば眠たくなる筈の時間帯なのに、汽車旅をとことん味わい尽くそうと益々元気一杯で、目もバキバキのままでした。

小倉を発車すると10分で門司駅に到着し、5分間停車の間に門司駅を出たすぐ先の「交直切換えジャンクション」を通過するために、関門トンネル区間専業のEF30形交直流電気機関車へ交換です。門司駅構内のここそこで、水銀灯に照らされてコルゲート板が光輝く銀色のEF30形が佇む夜の光景は実に幻想的で今も忘れられません。

このおもいでを是非模型で再現したいと長年願いながらも、ヘタレモデラーですので未だEF30形の入線は果たせて居らず、納得の製品を提供されるムサシノさんは別格としても、価格爆上がりをひた走るブラスモデルはもう縁遠いですから、TOMIXさんあたりでなんとかなからんかと思う次第なのですが、16番製品の旺盛な購買層年齢は4〜50代なのだそうで、そう聞くと、ますます望み薄な現状に凹んでしまい、老い先の短さを憂います。

EF30形に牽かれ門司駅を出て直ぐの「交直ジャンクション」を無事に通過して坂を下ると関門トンネルに突入します。一瞬軽く耳ツン現象に見舞われると、轟音とともに速度は上昇、トンネル内壁のグレーの地色に規則正しく流れる蛍光灯の灯りの帯と、所々に設置されていた退避箇所のオレンジ色のパトライトとドップラー効果を伴うブザー音で異世界に誘われ、徐々に速度は落ちて上り坂に入ったことを実感すると、EF30形のモーターの唸りも微かに聴き取れ、ほどなくしてサッと轟音は収まり、本州に到達したことを実感します。

本州側に入ると直ぐに留置線に憩う沢山のC62形やD52形の大型機が視界に飛び込んできます。23:13に下関駅に到着すると今度はC62形蒸気機関車の出番です。停車時間5分の間に、機関車交換を終えるといよいよ山陽本線の旅が始まります。

翌年秋に全線電化を控える当時の山陽本線の非電化区間は小郡から広島までの間で、その区間の所々では架線柱の設置も始まっていましたが、瀬戸内をひた走る「ひのくに」と深夜にすれ違う貨物列車の先頭に立つのはまだD52形ばかりで、轟音とともに迫り来る大きなドームのD52形は何度見ても迫力満点で、後ろに長く連なって単調なジョイント音を奏でながら通過していく2軸貨車群の通称「カラス列車」もまた、もう二度と見る事の叶わない国鉄時代の懐かしい光景です。

当時の「ひのくに」のC62形【関】の仕業は広島まででしたが、昭和36年の「ひのくに」誕生時はまだ東からの電化の延伸は岡山まででしたので、C62形による「ひのくに」の牽引も、下関ー広島【関】・広島ー岡山【広】と2機体制で繋いで、岡山駅でEF58形にバトンタッチされていたのですが、広島電化で岡山での機関車交換が無くなった後も、岡山駅の停車時間は変わらず5分のままでした。

本州突入前に通過した北九州工業地帯も同様でしたが、夜間の山陽本線の車窓は、長府や小野田・宇部・防府あたりの海沿いに展開する工業地帯、南陽・周南コンビナート、広島の手前で現れる大竹コンビナートと、近年はマニアの存在だったり観光ツアーなどで注目される今で言うところの「工場夜景」の宝庫で、それぞれのメカニカルで不夜城チックな美しさに圧倒されておりました。
下段寝台の弟も同様に魅了されていたようですが、団塊の世代と団塊ジュニアの狭間にあたる昭和31年生まれを中心としたマイノリティー、後に「シラケ世代」とカテゴライズされることになる少年時代の自身は一方で、去年まで泳げた海や河川の汚染、経済成長に浮かれる大人たち、大学に行かせてもらった挙げ句の過激な学生運動、交通戦争などなどと、不安な世相がこの美しく壮大なスケールの工場夜景の裏の姿の象徴にも思えて複雑さを拭えなかった記憶がございます。

長府の工場夜景を愛でると、「ひのくに」は厚狭を目指して山里に分け入り、このあたりの連続カーブでは先頭で頑張るC62形の勇姿が楽しめます。
この旅のあとも「ひのくに」には山陽本線全線が電化される前に2度ほど乗車しましたが、煙突から吐き出される煙の色は、いつも完全燃焼の証しである無色に近く、蒸気機関車を「動かす」熟練の技が、この頃まだ失われていなかったことが伺えます。特に冬場の冷気に冷やされて真っ白にたなびく煙の帯には格別の趣がありました。

以前お客様と雑談をしていた時に「夜間の蒸気機関車運転中のキャブの灯りは実際どうだったのか?」という話題になり、それは天賞堂さんの蒸気機関車のカンタム製品のキャブライトの動作が、初期モデルはELやDLモデル同様に、走り出すと消灯するプログラムがデフォルトでしたが、ある時から点灯を維持し続けるよう変更されていて、そんな話題に繋がったのですが、果たしてどうだったか、現役時代を知る身でありながらどうしても思い出せず、その場ではお役に立てなかったのですが、裏を返せばそれだけ闇夜の蒸機の煙に魅了されていたからなのかと思います。冷静に考えれば、運転中キャブ内を投炭に給水にと動き廻る以上、天井灯の常時点灯は必然だったと申せます。

厚狭の先、小野田、宇部、防府、徳山とコンビナートのめくるめく工場夜景を楽しむと「光ー下松」として朝焼けの下り20系特急を捉える撮影地としても有名だった下松から先の光駅までの海岸に最接近する海ベタの区間での夜の景色は、昼間の島々が点在する穏やかな瀬戸内の風景と違って、瀬戸内を行き交う大小の貨物船の灯りや漁船の灯りがもの悲しげで、瀬戸内航路はまだ昼間の観光船が主役の時代でしたから、話しに聞いた山陽鉄道VS瀬戸内航路というライバル関係の、これが最晩年の姿なのかもなどと思いを馳せて、02:31に岩国に到着し3分停車の後に広島へ向かいます。

「ひのくに」の停車駅は、有効時間帯と重なる九州島内でも特急列車並みに少なく、山陽本線に入っても下関を出たら小郡(00:30)、岩国(02:31)、広島(03:14)と、特急並みで、まだ関西発着の寝台特急が無かった時代の対応だったのかも知れません。

広島の手前で通過する大竹コンビナートの工場夜景を見届けて、03:18広島に到着します。
8分停車の間にC62形【関】からEF58形【宮】へ機関車交換されて出発すると、瀬野駅での30秒停車の間に、配置間もないEF59形【瀬】を素早く後補機に連結し、「セノハチ」の山越えに挑みます。

当時の瀬野機関区はまだD52形が多く、後に調べると昭和38年の夏のEF59形の配属はEF53形由来の1〜4号機の4輌のみでした。
後に天賞堂プラ製のEF59形を増備した際に、実車の2エンドに施された特徴的な黒と黄色のゼブラ模様の警戒色が、車体正面窓下だけではなく端梁にもシルク(恐らくパッド)印刷されていて、警戒色が端梁にも施されたのは、昭和44年10月改正で登場するEF56形由来の最終装備機22〜24号機からで、そこから全車の端梁に普及しますので、実車を見て来た自身としては、責めて端梁の警戒色の面くらいは添付シールで対応して欲しかったことを、ある時天賞堂商品部さんに見解を尋ねてみたところ、数枚の実車の写真が送られて来て「汚れで目立ちませんが、端梁にも警戒色はありました」と、トンチンカンに回答され、史実はこうして埋もれて行くものなのだなと感じつつ、かつて鉄道模型界のロールスロイスと賞賛された天賞堂さんの劣化ぶりが本当に心配になりました。手元のEF53形由来のEF59形モデルの端梁は勿論黒色に塗りつぶした次第です。

瀬野を出て山越えが始まると、後方からEF59形のMT17形吊り掛け駆動のモーターの唸りも届いて、本務機と後補機との間でノッチON・OFF・制動と、ホイッスルによる掛け合いが始まって、今はその掛け合いを無線で対応するのだそうですが、当時でも衝動少なく息を合わせた絶妙な運転が成立していて興奮するばかりで、山を越えた八本松駅構内で後補機が走行開放される際のEF59形のホイッスル一声には毎度痺れました。

この後三原を過ぎて、尾道に入ると向島との間の狭い水路が印象的な尾道水道の美しい夜景と、その先の山陽本線最後の工場夜景を楽しむと、線路は里山に分け入りますので、その辺りで軽く寝ます。

倉敷あたりで目を覚ますと、06:23に岡山に到着します。
かつての機関車交換時代同様に5分停車して出発すると姫路に到着するまでの間に「寝台解体ショー」が始まります。
終着前の寝台解体は昭和40年代の終わりになると、昼行区間の長い急行列車を除いては廃止されて行きますので、後年乗車することになる20系時代の「あかつき」、ギリギリ間に合った583系「明星」で堪能した解体ショーとともに貴重な体験となりました。

当時のオロネ10形の座席(寝台)のモケットは、更新前の「ぶどう色5号」色の純毛素材でしたので、当時の純毛は乗客の衣服への色移りの問題を抱えていたため、背もたれも座面も座席丸ごと白いシートカバーで覆われます。この後にオロネ10形のモケットは合成繊維素材に置き換わり、例のえんじ色の「赤7号」色が台頭し、丸ごとのカバーリングも廃止されます。

「ひのくに」は朝日を浴びて山陽本線をひた走り、07:40にホームからでもお城が望める姫路駅に到着し、降車駅の神戸まではあと一息となります。

明石を通過して並走する青とクリーム色ツートンの山陽電車が見えて来ると、戻って来た事を実感します。朝霧、舞子、塩屋、須磨と、EF58形が快速を飛ばす瀬戸内の海岸線は、以前も申しましたとおり、今よりずっと松林が生い茂っていて、風光明媚という形容が相応しい沿線でした。

当時の美しい須磨浦の海岸線のあるところに、岸から沖合へと桟橋のように細長く突き出た建造物が存在していて、目にする度にあそこは何だろう?とずっと謎でしたが、後年になって六甲・摩耶山系で削り取った土砂を海上まで運び出すのに、公害と交通渋滞が懸念されたダンプカー輸送を回避するために設営された長大なベルトコンベアだったことを知ると、神戸沖にコンテナ船に対応した人工島(ポートアイランド)を建設するのと同時に山には新たな街を造成するという、当時「神戸市株式会社」と賞賛された行政のアイデアに脱帽した次第です。

一時はコンテナ取扱量世界第4位を誇った神戸港も阪神大震災以降衰退し、いつのまにか人口も政令指定都市の中で福岡市にも抜かれてしまうという有様ですが、「ひのくに」で走った頃の沿線は、立派な偉容を誇った圧巻の鷹取工場も健在でしたし、山肌にへばりつくようにひしめきあう家々の屋根からは1本1本VHFのテレビアンテナが同じ方向に向いて林立する車窓は、各河川の両側に生い茂る松林とともに独特なものを感じておりました。

08:43神戸駅に到着し下車します。もうお腹ペコペコです。前日の夕食を早めに済ませて、ちょっとだけ寝たとしても一晩中飲まず喰わずでひたすら車窓に釘付けとなる旅ですので、今より食の選択肢に乏しいこの時代、食堂車も無ければ車内販売もやって来ないとなると、こうなります。

「ひのくに」は、そこは特急列車と違って、神戸にも三ノ宮にも停まりましたので、個人的には三ノ宮で降りて阪急電車を見たいのですが、兵庫区の平野の交差点から西へ行ったところの石井橋を渡って、クルマも入れない急坂を山登りした先の千鳥町に母親の実家がありましたので、神戸の方が便利だったということです。

神戸駅のホームに降り立つと、親の階段に向かう歩みにささやかに抵抗しながら終着大阪へ向う「ひのくに」を見送ります。冬場のお見送りではマニ60形の端梁からSGの蒸気が立ち昇る様は格別な趣がありました。朝のラッシュの時間帯、九州では絶対に見られない大好きなクモハ60形などの省線電車の吊り掛け音に酔いしれます。

只今来春発売予定のKATOキハ82系モデル向けの内装セットの開発途上にあるため疲労の蓄積甚だしく、本話が本年最後のコラムとなりそうです。

老い先の短さを焦る日常の影響なのか、結果的にとりとめなくぶっちゃけも過ぎたかな?とやや反省のコラムを、この辺りで締めたいと思います。
(2025.12.18 wrote)