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第61話【電車道】
第62話【2023年の始まりに思うこと】
第63話【北九州・交流電化の黎明期】
第64話【縁の地の不思議…或る「かもめ」のお話し】
第65話【存続の瀬戸際に】
第66話【PC復旧 苦行の軌跡】
第67話【高森線の思い出】
第68話【SLブームの頃】
第69話【右手マスコンの理由】
第70話【阪神タイガース】

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第61話【電車道】

2歳あたりまでの福岡市・その後の北九州市黒崎・八幡在住時代のそれぞれの街並で、常に身近な存在だったのがクリーム色と焦茶色のツートンカラーが(当時は)まばゆい西鉄の路面電車(福岡市内線・北九州本線)たちでした。

気が付けば、かつて路面電車が走る街中の道のことを呼称していた「電車道」という言葉も今や死語となり、近年LRTとして路面電車を見直す傾向にはあるものの、日常使いの言葉として「電車道」を耳にしなくなってしまった今日に寂しさを覚えます。

親の話しでは福岡では渡辺通1丁目の「九電ビル」の裏手に住んでいたらしいのですが、身近に電車の行き交う街中に居ながら自身の記憶には全く残って居らず、コラム第2話に記したとおり、記憶に残る鉄ちゃん人生始まりの原体験は、母親に「機嫌が良くなるので」と度々連れて行かれては飽きる事無く眺めていたという、黒崎駅構内に憩う蒸気機関車群の雄姿からになります。

黒崎在住の記憶は他に、何故か住んでいた家のありふれた玄関先の記憶くらいしか殆ど無いのですが、親の話しでは或る日私が行方不明になったことがあったらしく、大騒ぎになって近所を探しまわってもみつからず、まさか思って捜索した先の黒崎駅前の(もう閉店したようですが)地元の百貨店「井筒屋」の入り口で、地面に座り込んで電車を眺めていた私を発見したそうです。

家からの距離も然り、2歳そこそこの幼児がひとりでどうやって駅前に辿り着いたのか?今もって謎のままですが、このあたりのエピソードが「生まれながらの鉄ちゃん」と自称せざるを得ない所以のように思えて参ります。

話しを現代に戻して、最寄り駅の阪急御影駅にも駅の東端の線路端に、路盤とほぼ同レベルにあって電車を眺めるのにも丁度良い広めの(私も普段使いする)歩道があって、そこでは幼子と電車を眺める微笑ましい若いお母さんやお父さんの姿を度々に目撃します。大抵はベビーカーにちょこんと収まる今時のお子たちのうちの何人かは、きっと将来鉄道好きに成長するに違いないと思ってしまいます。

黒崎から八幡へ移り住んでからの記憶は可成り明瞭で、住んでいた町は末広町・高台の立地・木造平屋の小さな庭があった借家で、家の窓からは八幡製鉄所が見えました。

一般的に南国をイメージし勝ちな九州ですが、福岡や北九州は海山の位置関係からどちらかといえば(今は使いませんが)裏日本式気候に近似し、八幡でも雪が積もることがありましたが、その雪が黒いつぶつぶの煤煙混じりだったことも良く覚えていますし、ご近所さんが当時は珍しかったマイカー(マツダキャロル)を買ったと聞けばみんなで見に行ったり、八幡在住の後半になると我が家にも中古のテレビがやって来るといったそんな時代でした。

ある晩、父親の友人家族が我が家を訪れ宴会が始まりましたが、ご家族の中の歳の近そうな男の子と何故か意気投合すると二人で宴会を抜け出し、当時家からダラダラと坂を下った先にあった西鉄北九州線の電車道の電停に(電車停留所・これも死語になりましたね、電停は多分「大蔵」だったと思います)行って、丁度当時「3両連結が出る!」と話題になっていたその「新車」がやって来たら「中央町」まで乗ろう!とひとしきり盛り上がった思い出があります。

1960(昭和35)年当時の出来事ですから、1000形ABの2連接車体にC付随車が組込まれる3連接化実施の前で、いくら待ってもやって来るはずも無く、そもそも運賃の概念も希薄だった悪ガキの冒険は、懐中電灯片手に夜道を探しに来た両家族にしこたま叱られ終了します。

路面電車でありながら、インターバーン的要素も薫る西鉄北九州線を颯爽と駆け抜ける1000形は、3連接で無くても圧倒的にかっこ良くて、相前後して神戸にて、乗り込むなりド肝を抜かれた転換クロスシート車の神戸市交750形とともに、自分の中では間違い無く路面電車のヒーローでした。

まだまだ書き足らないエピソードは沢山ありますが、四方八方手の要る個人事業ゆえ、当初は月一ペースを想定していたコラムの更新もずっと侭ならず推移しておりますが、ふいに耳にした「コラムのワードが刺さった」と仰る或るお客様のご感想をバネに、いつまで続けられるか先行き不安な事業でもありますので、今年は出来る限りに塗装であったり描画作業であったりと、作業の切り替わる僅かな時間を意識的にコラムに充ててみたところ、年間で11話と目標に近づいて来ましたのでやれやれといったところです。

相変わらずに新製品「スロ54」の製品開発が続いて年末も休めませんが、暖かくなる頃には発売に向けての何がしかのご案内が出来るかと思います。
只今調達不能に陥っておりますシートパーツも、代替えなどの見通しが付かず課題山積で先が思いやられますが、引き続いて賜りました本年のご愛顧に厚く御礼申し上げますとともに、皆々様のご多幸をお祈り申し上げます。
(2022.12.27 wrote)

 
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第62話【2023年の始まりに思うこと】

新年明けましておめでとうございます。

今年は元日が日曜日なので、なんとは無しに損した気分になるのかなと、自営の身には縁の無い話から始まりましたが、年が改まり(昨年もそうでしたが)責めて元日は仕事を離れ何もしない日にしようと定めておりましたので、朝から呑んだくれていると、ふとした折りにお客様から度々に頂戴する「(精神衛生上も)たまには(自分の)模型弄りして下さいね」のお声掛けが頭をよぎると一旦はその気になるものの、ご周知のとおりに案外とデリケートな鉄道模型で遊ぶには、設営や(発生が予想される)不具合への対処など、1日では収まらないことは明白で、つらつら考えるうちに諦めの境地に支配され致し方なく持て余すと、今年はあろうことか元日から早々と、遅れに遅れる新製品・スロ54製品関連の軽めの工作に手を出してしまい、あえなく日常に引きずり込まれてしまいました。

みなさんご存じのとおり昨年末になって突然に、天賞堂さんとKATOさんから16番ゲージの発売予定情報が相次いで発表され、私の周囲でもひとしきりザワつきました。

天賞堂さんからは、スハニ35形・スハ44形・マシ49形・スロ54形・スハフ43形の組成からなる戦後客車時代の「かもめ」編成の製品化がアナウンスされ、自身も実はこれまで天賞堂さんへコンタクトの機会ある度に「何故「はつかり」をラインナップしたのに「かもめ」をやらないのか」と製品化を懇願し、毎回決まって食堂車に必要な新規の金型投資を理由に難しいと回答され続けておりましたので、正直殆ど諦めながらも、もしかしてと待ち続けた待望の製品化のニュースには尚更に心躍りました。

実車の戦後「かもめ」は1953(昭和28)年3月に博多-京都間の特別急行列車として運行を開始しますが、早々にロザ車1両を減車、当初に組成された非冷房の食堂車スシ47形を冷房付きのマシ29形へ置換え、更にマシ49形へ置換えてようやく組成が落ち着く1954(昭和29)年7月15日から1957(昭和32)年6月4日まで続いた、手間を惜しまぬ手厚い方転時代の、当時の特急らしい姿がモデルのプロトタイプとなります。

模型愛好家のみなさんの間で「かもめ」を語る上で、サン・ロク・トオ改正でキハ82系特急型気動車へ置き換わるまでの戦後の客車時代に於ける組成の変遷を、便宜的に「前期」「中期」「後期」に分けるのが一般的なようで、今回予定のモデルは所謂「前期編成」に相当し、引き続いてのハザ車を新鋭のナハ11形・ナハフ11形に、スハニ35形をオハニ36形に置換えて方転扱いを廃止してから食堂車に特急「平和」から捻出したオシ17形が充当される迄の間の、1957(昭和32)年6月5日から1959(昭和34)年7月24日にかけての編成が「中期編成」と、1歳児の自身が博多-神戸間でナハ11形に(本人に記憶はございませんが終始ご機嫌で)初乗車したのもこの時代の「かもめ」になります。

「中期編成」の末期にあたる1959(昭和34)年の6月から、客車や機関車の標準車体色「ぶどう色1号」の「ぶどう色2号」への塗替えが始まり、1960(昭和35)年7月1日には3等級制が廃止され2等級制がスタートしますが、「中期編成」の食堂車がオシ17形に置き換わってから後「かもめ」は、東北路の「はつかり」のDC(キハ81系特急型気動車)化で余剰となったナロ10形を迎え入れ、1960(昭和35)年11月17日よりロザ車をナロ10形に置き換え、そこから自らのDC化で最終運行となる1961(昭和36)年9月30日までのこの最終組成を「後期編成」としているようです。

自身の客車「かもめ」モデルは「後期編成」となりますが、ヘタレモデラーの私がもう20年以上も前から、フジモデルさんのナロ10形やオハニ36形をコツコツと揃えつつ、たまたま出張帰りに立寄った(まだ東京八重洲口にお店があった当時の)ホビーショップモアさんの店内で、輝く現物につい目が眩み、後先考えず買い求めたオシ17形を加えたところで、比較的短編成の9連とはいえ、重たいブラスモデルばかりの組成では機関車の牽引力が心許なく、さてナハ・ナハフをどうしようと長年放置していると、05年にTOMIXさんからナハ・ナハフの該当仕様が製品化されたので、迷わず入線させ増備を終えました。

各モデルは床下に端梁やトイレ流し管・車軸発電機などを追加した程度と、相変わらずのあっさり仕上げですが、オハニ36形には自作の点灯式バックサインを追加して、内装はひととおり設えましたので、現在の御影モデルのナロ10製品やナハ・ナハフ用のシールパーツは、この時の工作をベースに開発しており、弊社HPトップ画像のナロ10形もこの時の「かもめ」用になります。

因に1961(昭和36)年6月に発布された改定で、1等級帯色が青1号から淡緑6号へ変更されますが、改定の3ヶ月後には運用を終えることが決まっていた「かもめ」のナロ10形ですので、等級帯は青1号色のままでも違和感は無かろうと、モデルの等級帯も青1号色を存置しております。

弊社HPに掲載しております製品参考画像の殆どは、プライベイトで制作した自身のモデルで、めざとい方なら既にお気づきかもですが、営業車の列車名・列車種別サボについての国鉄の規定では、前位(①②エンド)に「列車名」を・後位(③④エンド)に「列車種別」を掲示するよう定められていましたので、各車の組成の向きによっては出入口付近で「列車名」どうし(或は「列車種別」どうし)が隣り合ってしまうという、インフォメーション機能として不適切な事例を実際に見掛ましたし、そもそも必ずしも規定通りに挿されて無かった光景も記憶しておりますので、自身の模型世界では、先ずは史実通りの組成向きを守った上で、下り方の先頭から「列車種別」「列車名」の順で、必ず交互に隣り合うように敢えて規定を無視して貼付けています。HP掲載の製品紹介画像のナロ10形やオロ11形のサボ配置が規定と異なるのはそのためです。

ohani36←フジモデルさんの塗りキットで仕上げたオハニ36形です。

テールサインは適当な径のパイプを金ノコで輪切りして仕上げました。「かもめ」の図柄はイラストレータで自作し、光源にはシーダさんのヘッドライト用チップLEDを採用し、逆位相で結線しています。(内装はデコラパネルによる更新仕様で作製しましたが、後の検証で木目地のオリジナルのままであったことが判明しておりますので、追々改装の予定です)

時折頂戴致しますお客様の力作を拝見する度に、我が身のヘタレぶりに凹むのが日常のお見苦しい薄味モデルにて恐縮です。

この度製品化がアナウンスされた天賞堂「かもめ」のこの時代の牽引機は、九州島内:C57形、関門トンネル区間:EF10形、セノハチ後補機:D52形、山陽東海道:C59形或はC62形と夢のような布陣なだけに、想像するだけでお楽しみの夢が膨らみます。

もう一方のKATOさんの新製品ニュースは、あの「夢空間」を16番ゲージでモデル化するという全く唐突なアナウンスでした。

私自身は実車の「夢空間」に全く興味がございませんので蚊帳の外ではあるのですが、まだご存知で無かったお客様にたまたまお伝えをしたところ、お仲間で大騒ぎとなった模様で、「夢空間」といえば16番ではこれまでブラスモデルで模型化はされたものの、ブラスならではの華のあるモデルながら、同時においそれとは手を出せない価格でしたので、欲しい方にはこの上ない朗報かと拝察を致します。

KATOさんといえば、今や貴重な国内生産を堅持するメーカーであるうえに、特にその金型製造や成型技術に於いては工業界レベルでも間違いなく一級品と申せますし、でありながら常にコストパフォーマンスに秀でた売価を維持してくれていて、しかも後々に実施する再生産の場面でも安易に値上げに走らないという、誠にあっぱれとしか言いようの無い希有なメーカーさんですが、唯一の難点は16番にそっけないという一点に尽きると、ユーザーの誰もが思うところではなかろうかと思います。

圧倒的にNゲージが主戦場の業界ですので、16番での製品化には企画・製造は兎も角も、流通販売面で不利に作用するのは明らかなので、KATOさんが想像以上に尻込みされるのも解らないでは無いのですが、以前のこと、発売を始めて久しいキハ80系列製品に、突然にキハ81形モデルが新たに加わった際に巻き起こった見事な市場の活性ぶりに、ついそれ見た事かと思ってしまう訳で、キハ82系製品同様に私もお気に入りのKATOさんの20系製品にもバリエーション展開の余地が有り余っているというのに、一向に動きの無い現状には常々歯痒い思いが拭えません。

16番製品には慎重なそんなKATOさんなので、この度の突然の「夢空間」製品化のアナウンスには大変驚かされましたが、良く出来たモデルと業界でも評判のようで、それは現在KATOさんのHPに掲示されている試作品画像からも、しっかり点灯式なのは言う迄も無いテーブルライトやラウンジ天井シャンデリアの精緻な作り込みなど、良さが十分に伝わります。

「夢空間」の天井の造作については、盛り上がるお客様から「和田さんとこのオシ16に刺激されたのでは?」とお言葉を頂戴したりと、外野の気侭な妄想談義にも花が咲きましたが、実際にどのような構造で模型に天井を設えたのかは私も知りたいところで、16番とは言え、限られた空間内での造形には、樹脂成型の方が自由度に勝りコスト的にも有利と言えますので、今後のインジェクションモデルの目指すべき方向性のひとつにも思えて参ります。

実車の「夢空間」に興味の無い自身にとって最初はピンと来ていませんでしたが、よくよく考えると、機関車や客車といったKATOさんの既存製品と自在に組み合わせられるので、遊びの幅も広がるという好適モデルであることは確かで、いつもの良心的な価格でもありますし、小売店さんでも既に予約は絶好調と、新年早々の16番製品での盛り上がりを喜ばしく思う次第です。

さて次回は、北九州在住時代の続きのお話しと、もうひとつの或る「かもめ」のお話しです。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
(2023.01.03 wrote)

 
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第63話【北九州・交流電化の黎明期】

1963(昭和38)年春までの数年を過した北九州在住時代、沿線の鹿児島本線では真新しい気動車が台頭しつつある中でも旅客・貨物輸送の主役はやはりC型大型蒸機・古豪も健在のD型蒸機と、蒸機牽引の普通列車もまだまだ当たり前だった時代でした。

妻面幌枠の足元左右に、いかついアンチクライマーが備わった戦前生まれのWルーフ車も数多く、一方では艶やかなボディーがまばゆい麗しの20系や最新のナハ10系列などのモダンな軽量客車の活躍も目覚ましく、複々線化も1961(昭和36)年10月には黒崎まで南下しますし、八幡から枝光にかけては、有名な「山科の大カーブ」にも劣らない迫力満点の大カーブが続いて、幾条にも連なる鉄路を新旧綯い交ぜにバラエティー豊かな列車たちが往来する様は、考えてみれば幼少の鉄ちゃんにとって極めて刺激的な環境にあったことが言えるかと思います。

これも親から漏れ聞いた話しですが、当時は主流と言えた750ミリ高の列車線ホームに、腰高のキハ10系列気動車が停車すると丸見えとなる床下機器類を、必ずしゃがみこんで飽きずに覗き込んでいたそうで、船舶由来のこのDMH-17形(多分C形あたりになるかと思いますが)ディーゼルエンジンのカランカランカランカランという独特のアイドリング音を聴いて育ったことが、その後のDMH-17形エンジン好きの礎となったようにも思えます。

ご周知の通りに鹿児島本線は、山陽本線全線の電化はまだ途上の1961(昭和36)年6月1日に、仙山線の試験実積を元に実用化された交流電源によって、先行した北陸本線や東北本線に引き続いて、同日に電化開業した常磐線とともに門司港-久留米間が電化開業します。

時代は流れて「つくばエクスプレス」のように沿線の気象庁施設での地磁気観測に支障の無いよう(常磐線の交流電化起点にも同様の理由が内在していましたが)わざわざ交流電化区間を設ける例はあっても、新幹線電車は例外として、今日では運用上の都合から交流電化区間を直流へ見直したりするなど、交流電化は電化の主役には成り得ませんでしたが、当時の国鉄は架線電圧を在来の直流1500Vから交流20000Vへ引き上げることで、電動車の製造コストは嵩むものの、直流では5キロ〜10キロ毎に必要な変電設備が50キロ毎で済み、変電設備そのものが直流より安価なメリットが、比較的に輸送力に余裕のあった地方幹線の電化に最適と、この時代の地方の幹線電化の延伸は交流で進められたことが、後々に電気機関車であれ電車であれ様々に車種の派生を齎すことになって、それが鉄ちゃんにとっては知的好奇心をくすぐるネタにもなって、振り返るとなかなかにいい時代だったかなと思います。

交流電化の実施に際して、車輌側は異なる電源方式を直通運転出来るよう交直流型の開発に力点が置かれますが、興味深いのはこの門司港-久留米間での交流電化が、電化そのものの幕開けとなる九州島内向けに交流専用電車の開発も並行していた点で、整流器の開発にまだ課題を抱えていた背景を思わせる交流電源で交流電動機を回せないか?といった素直なチャレンジにて課題のトルク不足に苛まれると、クモヤ791形に見られるように気動車並みにトルコンや遊星ギヤを介入させてみるといった(インバータ制御など夢の時代に於ける)着想には驚かされます。

この時点では交流電動機に見切りをつけ、交流を整流(脈流)して直流電動機を駆動するシステムに落ち着きますが、シリコン整流器の実用化も然りで(元はと言えば)研究用にフランス国鉄に求めた電気機関車供与の拒絶を端緒に、自力開発に邁進し結果的に国産技術で実用化に至った交流電化に携わった先人の努力はなかなかに壮快です。

ご周知のとおりこの交流電化で、東日本と西日本で異なる商用電源周波数事情に対応して常磐線には50Hz用の401系が、鹿児島本線には60Hz用の421系が新製投入され国内初となる交直流電車の運行が始まりますが、見慣れない新色のツートンカラー(当初401系は赤13号・クリーム1号、421系は赤13号・クリーム2号…1963(昭和38)年以降交直流急行型標準色と同色の赤13号・クリーム4号色に順次更新)を纏った裾絞りの幅広車体となって、側面の3箇所に両開きの幅広扉が展開し、車内レイアウトは戦前のモハ51系列から70系電車へ引き継がれてこの後も続くことになるBOXシートをメインに戸袋部にロングシートが配置されたセミクロス仕様、その所謂近郊型電車との出会いは、パンタ廻りの賑やかな碍子の理由など知る由もない幼児期の鉄ちゃんにとっても実に鮮烈でした。

401系・421系は、直流近郊型111系の交直流版と後発に認識され勝ちですが、近郊型の決定版として長らく続いたこのスタイルの始まりは401系・421系からで、湘南色・スカ色でお馴染みの111系の登場はその1年後となるのですが、電車線の環境整備が整わない地方線区へ投入されることが決まっていながら客扉にデッキステップを設けなかった仕様は不可解で、111系との並行開発が見え隠れ致します。
登場以降も長い付き合いとなる421系との思い出は、ホーム面から更に高い位置となる電車の床面に向かって、まるで梯子をよじ登るように気合いを入れて乗り込む苦行に始まります。

話しが脱線してしまいますが、ユニバーサルデザインの概念すら無かった時代を経験した世代として、今日の京都鉄博に見て取れる、列車ホームに見立てた通路(順路)を展示車両に密着させて来場者の安全を確保するやり方には、意図は理解出来ても違和感を感じざるを得ず、後世に産業遺産を伝える博物館の姿勢がこれで良いのかと、責めてホームと車輌との間には実物通りのクリアランスをしっかり設けて、隙間に生ずる危険性には転落防止用の透明アクリルパネルを嵌め込むなどして対処して欲しくなります。

以前もお話した通り、今日では一般的に「電車」が鉄道を指す常用語となりましたが、当時の北九州では、国鉄線のことを総じて「汽車」、路面電車を含めた西鉄線のことを「電車」と呼んでいて、その背なのかはわかりませんが、試運転を始めた421系電車のクハ前面に「電車」と書かれたヘッドマークが掲げられた史実には誇らしさが見て取れます。

幼少期を過した北九州在住時代、高度経済成長幕開けの空気感も漂いつつあった頃の今も印象に残るお楽しみといえば、折尾駅に出掛けて味わった東筑軒の駅弁「かしわめし」であったり、六甲ケーブルと並んで異空間にワクワクした皿倉山へのケーブルカー登山であったり、421系快速電車で福岡市内へ足を延ばし西鉄貝塚線に乗り換えて辿り着く夢の遊園地「香椎花園」だったりしましたが、或る日のこと、徒歩で渡れる関門国道トンネルで本州側へお出掛けした先で、どう見ても実物大に見えた金色に輝く巨大なC62形(に見えた)前面のカットモデルが建物の壁に埋まっていたのを見た記憶が確かにあるのですが、一体どこの何だったのか未だに謎です。

幼稚園の卒園とともに熊本へ移住することになりますが、その半年程前に洞海湾を跨いで戸畑と若松を繋ぐ「若戸大橋」が竣工します。今はありふれた橋ですが当時は東洋一の吊り橋と謳われ業界では長大橋の始祖と位置づけられるそうですが、どんな経緯だったのか全く不明ながら、竣工時に実施された渡り初めに参加して橋の上を歩いた経験があり、振り返れば幼稚園で仲の良かった友達の名前は覚えていても顔は思い出せないほどに北九州との縁は一旦途切れてしまいますが、北九州在住時代の記憶に残る最後の思い出として、その後も鹿児島本線で沿線を通過する度に眺めていた赤い吊り橋には今も特別な郷愁を感じます。

余談が過ぎまして、予告した「もうひとつの或る「かもめ」のお話し」については次回にお話し致します。
(2023.01.27 wrote)

 
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第64話【縁の地の不思議…或る「かもめ」のお話し】

小売店様などでお話しを伺っておりますと、近年の鉄道模型界にはどうも気になる変化が見られるようで、これまで受け継がれて来た模型の性質上守るべき不文律・常識などを軽視してしまうようなメーカーの製品づくりであったり、一方ユーザー側では、巷に溢れる工業製品並みの品質を正義とする従来はあまり見られなかったように思える価値観も顕われているようです。

これまでも時折出現した経験不足なメーカーの粗相は兎も角、ユーザー側の傾向が業界にとって果たして歓迎すべきことなのか、私には判断がつきませんが、元より鉄道模型趣味に付いてまわるモデルやレイアウトの作製、軌道・電装系などのメンテナンスのそれぞれに不可欠といえる創意工夫であったり加工技術などを、失敗を繰り返しながらも磨いていくことで得られる奥深さだったり楽しさは、鉄道模型趣味を支える大事な要素に思えるのですが、時折目にするようになったこうした異変には少なからず寂しさを覚えます。

このお商売のお陰様でお客様との同好の交流もそれなりに深まりますので、工作関連のご相談にお応えしたり(但しヘタレモデラーの自身の助言など屁の突っ張りにもなりませんが…)模型製品全般の情報交換など致しますが、そんな中でたまたま縁の地「八幡」にお住まいのお客様から、先般天賞堂さんが製品化をアナウンスされた「かもめ」編成と同時期の「かもめ」のモデル化に以前から取り組まれていたことを伺いました。

その方はブラスからペーパーまで幅広く手掛けられる凄腕のお客様で「無いものは作る・工夫して作る」という姿勢には(自身とは圧倒的な技量の差こそあれ)日頃から勝手にシンパシーを抱くモデラーさんなのですが、内容をお伺いするうちに「これぞ鉄道模型趣味を楽しむということの好事例」と思えて参りましたので、意図をお伝えをして本コラムでのご披露をお願い致しましたところ、ご快諾を頂きましたので今回はこの「もうひとつの或る「かもめ」のお話し」へと参ります。

■北九州市・K様加工作品:
ハセガワMODEMOキットベースのスハフ43形とお椀型「かもめ」ヘッドマーク
※C57形11号機は天賞堂製品、以下全て提供画像です(適宜当方加工も含まれます)


取材を元にお話しを進めますと、折しも還暦を迎えられたところだそうで、模型は中学から始められたとのこと。
鉄道に興味を持たれた幼少期に「かもめ専用機」として装飾された門デフ機に衝撃を受け、またゴー・サン・トオで終了する最終ルートのDC特急時代の、枝光-八幡の大カーブを2003D筑豊線経由佐世保行き「かもめ」①号車から⑥号車の6連に引き続いて、3D長崎行き「かもめ」⑦号車から⑬号車の7連がやって来るという、ダイナミックな「かもめ」の雄姿にも感動と、「かもめ」の再現には強い思い入れをお持ちで、(先頃久々の再生産がアナウンスされた)天賞堂C5711号機モデルについても前回の発売アナウンスと同時に予約して購入されたそうです。

私の場合DC「かもめ」時代は、これより少し前の長崎・西鹿児島ルートだった頃が一番夢中でしたが、考えることは同じで実は私も前回の天賞堂C5711号機「かもめ時代」製品には、後先考えずに飛びつきました。

手元の記録では20年前に購入しており当時の定価は198,000円、消費税5%の時代で1割引の187,110円で購入していました。
飛びついたとは言うものの、ブラスモデルを購入する際は、メーカーに勤務していた当時、デザイン案の確認や提示に必要だったデザインモデルの制作を、専門のモデル屋さんへ依頼する場合に用いられていた、時間当りの工賃×日数×人工+材料代で算出されるモデル代を頭の中に思い描いて、この製品なら6〜70万はかかりそうやなと、半ば恣意的に導き出した対価をハードル超えの納得材料としていましたが、今や40万円台も当たり前のブラス製蒸気機関車の製品価格にはもう絶望的に付いて行けません。

車体の軽いプラ製品の台頭で長編成走行も容易くなり、昔は諦めざるを得なかった20系客車の実車通りの15連走行も(音は兎も角として)可能な時代となりましたので、自身も基本実車通りの組成でモデル化しますが、天賞堂C5711号機「かもめ時代」製品は見るからに非力ですので、9連とはいえ「かもめ」を組むには当時フジモデル製品くらいしか思い当たらず「かもめ」のモデル化は将来のプラ製品に託すことにしました。

近年「つばめ」「はと」「はつかり」と天賞堂さんがスハ44系列モデルをプラ車体で製品化されたので、以前もお話しした通り、この間天賞堂さんへ連絡の機会がある度に「かもめ」の製品化を猛プッシュする鬱陶しいユーザーだったのですが、ここが私のようなヘタレモデラーと凄腕正統派モデラーKさんとの大きな違いで、たまたま地元の模型店で発見されたMODEMOのスハフ43形製品を入手すると、MODEMOからは他に「かもめ」の組成に適したスハニ35形・スハ44形・スロ53形(ご周知の通り、スロ54形と同外観)製品が発売されていましたので、これらをオークションを利用してコツコツと集められたそうです。

MODEMOはプラモデルメーカー「ハセガワ」が手掛ける鉄道模型ブランドですので、製品も所謂プラモデル的な頼りなさが予見されはしたものの、編成の軽量化という大事な条件はクリアします。なんでも中村精密製を引き継いだ製品なのだそうですが、側窓や幕板などの縦寸法が実車の縮尺寸と異なっていて大きく不満だったそうですが、そこは雰囲気重視と割り切って、製作に取りかかる前に天賞堂プラ製「つばめ」編成が発売されたこともあって、最小限の投資で天賞堂製品と遜色無いレベルへ引き上げようと細かに工夫されたそうで、その努力は出来上がった作品からも伝わります。

マシ49形については、やはりオークションで落札したニワ製のスシ37形を充てる予定が、立派な造り故に重たいためフジモデル製へ変更されたそうで、更に床板をアルミ製に換装し軽量化に留意されています。

■仕上げを待つフジモデル製マシ49形


マシ49形は、戦前に遡る1931(昭和6)年製スシ37740形をベースに1933(昭和8)年に丸屋根に設計変更されたスシ37800形がルーツとなりますが、黄金色のブラス生地の状態でもその重厚で端正な出立ちにうっとり致します。

昭和8年といえば、他界した母親の誕生年で、私が母親とともに初めて乗車した夜行急行「雲仙」の食堂車も「かもめ」運用から外れたお下がりのマシ49形でしたので、利用は叶いませんでしたが、因縁めいたものを感じます。

余談ついでに、JR九州の金ピカの外装がなんとも形容し難い大人気の観光列車「或る列車」のモチーフとなったのが、皆様ご存知模型界の重鎮・原信太郎御大の模型そのものだった訳ですが、明治期の九州鉄道がブリルに発注した客車たちが引き渡されたのが九州鉄道の国有化後だったために行き場を失い、長らく大井工場に眠った悲運を、鉄ちゃんの間で長きに渡って「或る列車」と語り継がれたこの豪華客車たちの模型化は興味深く、原さんは長らく芦屋にお住まいでしたので、時折近隣の百貨店イベントなどへ出品され私も「或る列車」を拝見しましたが、外観は生地色のままでも内装まで細かく作り込まれたモデルには凄みを感じました。

たまたまある日の会場で、原さんご本人と少しだけお話する機会があって「或る列車」のことを伺うと、資料に乏しかったので展望デッキ手摺の唐草模様などは完全に自身のオリジナルで「遊び心」を優先させたとお話し下さいました。
模型は自由も然りと改めて思いますが、(あくまでプロダクト視点とお断りした上で、現場の苦労などこ吹く風と相変わらずの大胆さで)気動車正面に象徴的に唐草模様をあしらった金ピカの水戸岡デザイン「或る列車」の変身ぶりに、天国の模型作家は何を思うだろうと感想を伺ってみたくなります。

■お椀型「かもめ」ヘッドマーク


冒頭で紹介した九州特有の「お椀型」ヘッドマークは、所属クラブの重鎮から漏れ聞いた手法に倣い、ホームセンターで見つけた鉄製のローゼットワッシャを受け方にして、高校生の頃に購入済みだった「ひかり模型」製のヘッドマークを乗せ、ハンマーで丸みが付くよう成型したそうです。

古い製品だけに塗装・素材を傷めぬよう加減しながら慎重に叩き出されたそうですが、少しの膨らみでも効果は十分で、更に装着用に背面上下に穴開きの取付け座を設ける丁寧さが光ります。私も是非挑戦しようと思いますが、日頃ヘッドマークの掲示を両面テープの仮留めで済ませてしまう自身の荒技が恥ずかしくなります。

■8号車減車の8連で落成した「かもめ」

最終的にMODEMOスロ53製品の入手が2両に留まったことから、8号車を減車扱いとした8連で一先ず運行を開始されています。

■スハニ35形



■スハ44形


■スハフ43形




■スロ54形



MODEMO製品はやはり成型の荒れが酷く車体の下地処理には相当な時間を要されたそうですが、全く見劣りしない仕上がりぶりに、却って苦行の日々が透けて見えて参ります。

妻板やデッキ扉などは適宜対象の成型部分を削り落として「工房ひろ」のエッチングパーツでディテールアップ、床下機器は軽さに留意しカツミ製プラ一体モノに変更した上で適度なパイピングによる精緻さの演出に配慮されています。(但し重心確保のため釣り具の錘を加工したウエイトを搭載・カツミ製スハ44用の一体床下パーツはスロ54形にも流用)

また窓ガラスパーツも(恐らくヒケと思われますが)平面が出ていなかったため、割り切ってポリカ薄板を貼り付け、僅かに段差が生じてもスッキリとした見た目を重視されています。

ひかり模型のヘッドマーク製品も然り、何かに使えないかと遥か昔に確保した素材の活用はなかなかに愉快なもので、私も会社勤務時代には設計部署の工作台の上に散らかっていた屑ゴミの中から、ウエイトになりそうな亜鉛板の端材を見つけると、顔馴染みを捕まえて「これ要る?」と了解を得て(厳密に言えば業務上横領になるかもですが)たまに持ち帰ることがありましたが、ヘタレモデラー故に活用率は一向に上がらず宝の持ち腐れが続きます。

台車は製品付属のものだそうですが、モア製の真鍮軸受けを全軸受けに埋込んで集電に対応、連結器はIMONカプラ、ベンチレータはKATO製に変更、車体の塗装は「モリタ鉄道カラーぶどう色1号」をチョイスされています。
好みの範疇にはなりますが、個人的には天賞堂プラ客車製品の「ぶどう1号」色が満足の行くレベルとまでは思えないだけに、画像ですので厳密には判断出来ませんが良さげな仕上がりぶりに見て取れて、自由度に勝る自作の良さを感じます。

標記類(インレタ)は「くろま屋」製、旧字の「門タタ」は特注で発注、その後製品ラインナップに加わっています。(以前私も「くろま屋」小川さんに特注した電気機関車検査票の「新製」バージョンが、後に製品ラインナップ化されましたが、インレタのプロらしい製品化への積極姿勢が大変に有り難いメーカーさんです)
実車と異なるウインドシルの位置で天地が浅く窮屈となったスペースに、形式・自重・換算・検査の各標記インレタを慎重に配置された気配りが画像からも伝わります。

スロ54形の青1号色の等級帯も「くろま屋」製インレタです。一般的に細長いドキュメントは扱い辛くインレタに不向きと言われますが、私もTOMIX製の青15号色オロネ10形に(2等級制時代としたく)「くろま屋」さんの淡緑6号等級帯を使いますが、インレタ作業自体元々好物とは言え、透け止めも抜かり無い品質と扱い易さは流石です。

「特急」・「かもめ」のサボパーツはモア製・号車札は以前にお裾分けした私の自作で国鉄書体を使用しています。
「博多行」の行き先サボは、エコーさん推奨のアトリエリーフ製品、私は自作で済ませてしまいますが、小物ながら雰囲気出しに効果的に貢献する嬉しいパーツと改めて思います。

近年車体標記類を(パッド印刷やシルク印刷などで)印刷済みとした製品が増えましたが、標記済みのぶん自由度が狭まりますので個人的にこの傾向は嬉しくありません。
(直近のTOMIX青15号色の10系寝台車製品で、青色となった実車で5年も続いた窓下の「寝台」標記の史実を無視して、印刷済みの「B寝台」とした仕様の変更には、価格上昇も含めて余計なお世話と本当に落胆しました)

■MODEMO内装

ズラリと列を成す一方向きロマンスシートとスハフ43形の特徴でもある上等な車掌椅子も印象的な製作途上の楽しくなる光景です。

乗客用座席はロザ・ハザとも製品付属の座席パーツを使用、2席一組でブロック状に成型されたパーツなのですが、背もたれの角度が殆ど垂直だったため、自然な傾斜となるように個々のパーツの底面を削って角度を付けた上で、治具を拵えて床面に配置されています。

ハザ車に180個・ロザ車に48個の計228個のパーツ底面をバラツキ無く修正し、生地を整え塗装して、シートカバーを装備するという作業は、想像するだけで気が重くなる修行の領域ですが、座席パーツ底面に傾斜を取ることで結果的に座面にも肘掛けにも実感的な角度が付きますので、ピンチをチャンスに変えた後加工の好例と思います。

シートカバーですが、ハザ席はポスカの白で塗装、ロザ席にはエーワンのラベルシールを切出し貼付けて表現されています。この時代の特ロシートのシートカバーは、両サイドに付いていた細紐で括って背もたれに固定する方式の1枚もののエプロンタイプでしたので、その見た目にも合致します。

私自身いつも悩ましいのが座席の色で、手元にある資料ではハザ席は「緑7号」、ロザ席は純毛時代なので「ぶどう色5号」なのですが、以前にもコラムに記したかと思いますが、そもそも国鉄色見本帳が繊維色には基本的に対応していないため、今となってはこの緑色も茶色も実際にどんな色だったのか特定出来ません。

2年程前に「国鉄色ハンドブック」を刊行されたTMS編集部さんも、色決めの中心人物だった星さん・黒岩さんがご存命の間にこのあたりのことをしっかり取材しておくべきだったとコメントされていますが、星さんは一時期芦屋にもお住まいでしたし、もしかしたらコンタクトが取れていたかもと私も尚更に悔やまれます。
星さんとは太いパイプがあったはずの天賞堂現行のスハ44系列製品の座席パーツの色調に、どんな情報が果たしてどれほど反映されているのか、検証のしようが無いだけに真相を知りたくなります。

■室内灯配線


室内灯は亀屋さんのテープLED製品を使用、コスパが良く私もお馴染みの有り難い製品です。

面白いのは室内灯を天井に貼らずに仕切頭上に設置するこのタイプのレイアウトに於いて、集電加工した台車センターピンから室内側へ引込んだ導電ルートを、二重にした中妻の間に挟み込んで上方へ持ち上げて、中妻を脚代わりに櫓のように組んで頭上に設置したテープLED室内灯に通電するという、電装を極力隠す工夫が光ります。更に床下のビスの締緩で室内灯のオン・オフが出来るよう一手間加えられています。

■マシ49形


食堂車の内装には軽量化を目的に、モデルシーダーさんが企画・販売されているMaxモデルのスシ37740形製品向けの内装キットで構築されています。

所謂レーザーカットパーツの組立キットですが、中妻も料理室仕切も食堂椅子もテーブルも、全て適宜折曲げたり貼り合わせたりしてパーツ化する方式です。
一見簡単そうに見えますが、抜く・曲げる・貼り合わせる・下地塗装で補強するといった、しっかりとした成形に必須な個々の作業は、それなりに腕前にも左右されそうで、こうしたキットこそ経験を積む上での好適な素材と思えて参ります。

内装パーツを室内へ収める方法も色々と思案のしどころかと思いますが、室内灯の関係で食堂テーブル・椅子をアルミ床面に固定する方式として、当該箇所に干渉しないよう床板取付けアングルは極力短縮されています。
(マシ49形の室内灯配線は、私の常套手段でもある建具で隠れる部分の車体壁に設けたスプリング接点で通電する方式とされています)


食堂テーブルにはメニューや食器・(一輪挿しの)花瓶、更に乗客もセットしたくなったそうですが、ひと手間加えたテーブルクロスの表現だけでも窓越しの食堂車らしさがグッと引き立ちます。

Kさんからの「マシ49形の内装色は何色?」というご質問が、この「かもめ」モデルを知る発端でしたが、戦後まで運用が続いた昭和一桁生まれの3軸ボギー食堂車の資料は、カラー写真も含めて極めて乏しく私にとっても悩みの種なのですが、たまたま50年前に入手していた手元の資料に、冷房化で後にマシ49形となるスシ48形の内装色が「クリーム3号」であったとの記述を発見しましたのでお伝えしました。

後になってTMSの「国鉄色ハンドブック」の「クリーム3号」の項目にも同様の記述を見つけましたので、裏を返すとこの間新たな史実の発掘などの研究が進んでいないことを示していそうに思えます。当時の木製食堂椅子に用いられた織物やビニールレザーのクッション色も、赤・黄・茶・緑・青や水色と色々あったようですが、流石に特定には至りません。
モデルの食堂椅子にあしらわれた赤茶色もなかなかに似合っていて、工作の楽しさが伝わります。


料理室屋根上のベンチレータにはニワ製のロストパーツを奢られています。

床下機器は写真を参考に配置され、前後で隣り合うMODEMO製客車とのバランスを考慮した仕上げとされています。存在感を放つKM形冷房ユニットにはやはりそそられます。

軽量化とクオリティの担保に腐心されたKさんの「かもめ」作品解説は以上となりますが、苦行の想像は容易で、私もチマチマした工作に耐えられる体質ではあるのですが、好きな事とは言え正直頭が下がる思いが致します。

人生の転機を迎えられ、ご本人曰く「(時間は必要だが)低価格で作る」のか「(価格は兎も角)優れた完成品」にするのか、これまでは圧倒的に前者の、如何に工夫してオリジナル作品とするかを主題に楽しんだ模型趣味を、今後の人生で限られた時間をどう配分するのかを考えながら在庫キットに向き合っているそうです。

起業以降個人の工作は後回しとなり一向に減らない仕掛かり品を思い出す度に、直系が70代前半で他界したこともあって残り時間の少なさに焦ります。
一方でお商売を通じて愛好家の皆様と繋がったことは、大なり小なりそれぞれの創作活動に触れるところとなり、それは少なからず自身の癒しともなっていることを有り難く思う次第です。
(2023.02.06 wrote)

 
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第65話【存続の瀬戸際に】

先月9月の第1週、最早記憶も曖昧ですが確か7日か8日の午後でした。多岐に渡るパーツの作成を殆ど終わらせて7割方進捗していた「スロ54冷改」製品化業務終盤に残るパネルデータ作成の最中に、突然HDDが故障しHDD内のデータを全て喪失しました。

只今代替機による復旧作業の途上にありますが、PC環境の再構築とともに、特に「スロ54」関連の、少なく見積ってもこれまで半年以上をかけて作り上げて来たデータ全てを作り直さなければなりませんし(不幸中の幸いで、普段から描画の際は紙に寸法なりのメモを取ってありますので、時間は要しますが再構築は可能です) 他にも一筋縄では行かない頭の痛い作業が山ほど控えており、なかなか戻らない体調など自身の体力面も考慮すると、万全の体制を整えるためにこの際当面休業することに致しました。

再開はHPでお知らせ致しますが、今のところ時期は未定です。また「スロ54冷改」製品の発売も来年に延期致します。ご予約のお客様をはじめ、お待たせを致しますこと深くお詫び致します。何卒ご容赦下さいますようお願いを申し上げます。
(2023.10.01 wrote)

 
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第66話【PC復旧 苦行の軌跡】

若干鉄分不足します。

前回お話しを致しました通り、7割方進捗していた「スロ54冷改」製品化業務終盤に残るパネルデータ作成の最中に業務必須のPCがフリーズし、仕方なく再起動すると、OSが見つからない状態を表す恐怖の?マーク付きフォルダ(初めて目にしました)が、ディスプレイ表示されるだけの起動不能状態に陥ってしまい、自身もその場で背筋が凍って正にフリーズしてしまいました。

実は間が悪いことに、今夏に住居で発生した漏水事故の復旧工事がちょうど完了した矢先の出来事でしたので、工作スペースも雑多な仮置の荷物や家具に占拠されていて、近々始めるつもりだった元の居場所への移動も、それどころでは無くなってしまいました。

以前に「PCトラブルで廃業した個人メーカーさん居るよ」と六甲模型さんの店頭で漏れ聞いていた話が、恐ろしいことに現実味を帯び、その日から復旧に奔走する日々に突入します。

先ずは前回のトラブルでお世話になった修理屋さんで診てもらうと、やはりHDDトラブルで、修理は困難・データ救済は専門業者への依頼が必要、別途(なかなかの)基本料が発生し、その先は相応の出来高払いになるが救済出来る保証は無いとの結論で、一部のデータは外付けHDDに保存してはいたものの、結果的にHDD内の全データを失うという、あろう事か全くお手上げの状態に追い込まれてしまいました。

事業のツールとしてPCは不可欠ですので、こうなると新たに調達するしか方法がなく、更にこれまで通りの作業環境を整備するためは、最早時代遅れの既存のソフトや周辺機器が問題なく稼働することが絶対条件となる極めて狭い範囲での機種選びが必須となりますので、難しいショップ巡りを強いられて毎日ヒリつきましたが、なんとかこれなら行けるかもと思わせてくれた1台が見つかり、代替機として調達致しました。

自身趣味の時代から愛用して参りましたADOBE AIアプリケーションをツールとして、描画に起こし印刷加工してパーツ化する手法は、申すまでもなく「御影モデルクリエイト」製品の肝ですので、起業の際は背伸びしてPCも新調し、ソフトは使い慣れたADOBE製品の当時の最新版AIとPSに(HP作成用の)DWを加え、更に新たな書体やOfficeなど整備して、万全の体制で業務をスタートさせたのですが、以後予期せぬPCトラブルに見舞われる度に、やはり起業は分不相応だったのかと何度も心折れました。

会社業務の関係で出会ったMacintoshパソコンとの付き合いは長く、個人でもCPUがモトローラ・OSがKT7時代の一体型デスクトップパソコンのLC575に始まり、PowerPC8500、初代iMac、ポリタンのG3、iMacG5と愛用する間、歴代のMacでのトラブルは一度も無く、そればかりか数台手元に残るMac達は皆、通電すれば今でも普通に稼働するので、多少のことならいくらでも自分で対処出来ることが美点でもあったMacintoshに、知らずに寄せていた信頼感のせいか、PCの経年変化に鈍感になっていた自身に今更ながらに気づかされます。

起業で導入した自身6代目となる27インチiMacA1312(Late2009)モデルは、後継のMid2011モデルまで続いた 筐体に、パソコンにとって致命的とも言える放熱不足の問題を抱えていた模様で、その異様とも言える発熱には自身も購入して直ぐに気づきましたので、大事を取って2台の冷却ファンでPC背面を冷却しながら使い続けましたが、2020年の夏、その少し前に発生した外付けHDDのトラブルで、そこに溜め込んでいた長年の趣味のデータを全て喪失するという、個人にとって計り知れないダメージにより憔悴し切っていたところに、PC本体が起動不能に陥るという今度は仕事に直結するトラブルに見舞われてしまいました。

その顛末はコラム第45話にて既にお話しておりますが、修理を依頼するも残念ながら起動不能原因の特定には至らず、その時は結局故障機からHDDのみを取り出して同型の中古機に移植する手段で復旧させました。

なのでこの時は何も手を入れることなく元通りの環境が復活したのですが、コラム第45話に記した通り、修理屋さんでご用立て頂いた同型機はいかにも中古機風情で、筐体数カ所の打痕のようなキズも痛々しい過酷な環境のオフィスユース臭の漂う機材でしたので、温度センサーに不具合があるのか、本体の冷却ファンが真冬でも(今どきあり得ないほどの)爆音で駆動するのには閉口しましたが、冷やさないよりはマシだろうし最低限仕事になれば良しとして、この度の臨終を迎えるまでの3年間しっかり働いてもらいました。

このとき業務の全てを故障したPC1台で賄っておりましたので、故障の瞬間から修理から戻るまでの間インターネット通信手段を失うため、急遽代わりの機材の確保に迫られ、当時コロナ禍で外出を控えるライフスタイルが定着していた中、意を決して訪れた三宮ジョーシンのガラガラの売り場で在庫のあった一番安価な15インチiMacを調達し、急いでメールを復活させたのですが、既に数週間が経過していたその間の受注は0件と、情けないオチが付いたばかりか、余計な出費が後々の家計に響いてやり繰りに奔走する日々に見舞われました。

そんな零細事業者ですので、今回のケースのように代替機が必要となったところで全てを新調する余力など全く無いばかりか、新調すればソフトのクラウド化にも対応しなくてはならず(自身としてはメリットを踏まえても未だに納得の行かない高額な)月額使用料が各ソフトに発生するので、早晩立ち行かなくなることは明白です。

一方で全てパッケージ版で権利を取得した現在所有するソフトに、最新版と比較して描画の機能面で劣る点は全く見当たらず、業務に於いてもこれで必要十分なので、そもそも更新など不要です。

加えてスキャナやプリンタなどの周辺機器についても、OSを新しくすればそれらが適合するか、適合しなければ新調の必要性も生じますので、結果これまでと同じ環境で再出発することが、再びいつまで持つかわからない中古機を導入する不安はあっても、現時点で最も現実的な方策と判断した次第です。

このような考えのもと、今思い返しても本当に奇跡的なタイミングで条件に見合う中古機が見つかり、通算8代目となる27インチiMac A1312(Mid2011)モデルを迎え入れましたが、もし見つかっていなければ、あっさりと廃業に追い込まれていたと思います。

楽天に出店されていた京都のパソコン屋さんで見つかったのですが、発注後にこちらの窮状をお伝えしておりましたが、届いたモデルにはショップの真摯な姿勢が一目で分かる状態の良さでしたので一先ずは安堵しました。

ご担当の方はMacintoshにも精通されて居られて、正直に今後想定されるトラブルの可能性や対処方法など色々とご教示を頂き好感が持てました。やはり企業は人なりと申せます。

勿論年季の入った中古機にかわりないので、ディスプレイに相応のヘタリは実感するものの、それでも前機よりは随分マシで、何より感心したのは起業の際に新品で導入したLate2009モデルよりも遥かに発熱しない点でした。

以前の環境と同じOSのSnow LeopardがインストールされただけのスカスカのHDDへの、メールやインターネット設定や各ソフトのインストール作業は、通信関連も含めてIDであったりPWなど、普段は様々に保管している重要情報の掻き集めから始まりますので、久々にやるとそれだけでも面倒なうえ、各ソフト固有の設定の段階でも予期せぬ課題に直面したりと、PC本体の調子を気遣いながら進めたこともあって思った以上に時間を要しました。

今は外付けHDDでバックアップしていた各ファイルが使えそうかどうかを選別する段階なのですが、相当に慎重を要す作業ですので、まだまだ時間はかりそうです。

今回お世話になったショップのご担当の方に(当たり前のことなのに何故思い至らなかったのだろうと悔やんでも悔やみきれない目からウロコの)アドバイスを頂いて、感動するやら反省するやら、綯い交ぜの感情が今も渦巻いておるのですが、随分以前からどのMacintoshにも(Macユーザーならお馴染みの)「Time Machine」というデータ救済ソフトが標準で搭載されていて、例えばデスクトップ上で作成中のファイルがあったとして、保存をかける前に何かの拍子でソフトやPCがフリーズしたとしても、再起動してTime Machineを覗けば、再び作りかけのファイルから作業が続けられるという便利なソフトなのですが、HDD内の全データを1分毎に丸ごと連続してバックアップする優れものですので、予めバックアップの保存先を外付けのHDDなりの外部に指定して置きさえすれば、例え最初に見舞われた電源が入らなくなったトラブルであろうが、今回のHDDが破壊された場合だろうが、新たなPCを調達してTime Machineのバックアップに使っていた外付けストレイジを繋ぎさえすれば、OSから通信環境やらソフトやらの細かな設定もファイルデータも、一気に丸ごと復活出来てしまうのだそうで、それほど優秀なバックアップソフトだったことを知らずに居たことが本当の悔やまれます。

かくして今回の新たな中古機には真っ先に、たまたまストックしていた未使用の外付けHDDを繋いでTime Machineのバックアップ先に指定して稼働させました。これで本機が潰れたとしても(年々厳しくなりはするものの)また代替機さえ調達すれば、遥かに楽に再始動が可能となる新たな武装を施した次第です。

因に、皆さんもお使いになられているであろう外付けのストレイジについて、その方曰く、HDDの場合は使用年数を3〜4年にとどめておく方が良い、4年を過ぎるとトラブルが増加する、一方SSDは(記憶素材の関係なのか理由は聞き損ねましたが)寿命7年なのだそうです。SSDは前ぶれなく静かに壊れるが、HDDは壊れる前にいつもと違う異音が出るなどで予見出来るので、個人的にはHDDがお薦めなのだとか。

そういえば今回HDDが壊れる数日前から、時折耳慣れない小さな音量のカタカタカタカタという連続音が鳴っていたことが今になって思い出されます。後の祭りそのものです。
(2023.10.08 wrote)

 
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第67話【高森線の思い出】

業務用PC環境の再構築作業を開始して概ね1ヶ月が経過しつつありますが、同じOSとは言うものの、サポートの終了した古いOSならではの、世の中のテクノロジーの進化によって生ずる(想像に無かった)微調整作業が必須となるため日々神経をすり減らし、早くも疲れ果てております。

そんな切羽詰まった時に何故コラムなのかと申しますと、HPの管理ソフトについては復旧済みの一方で、HPの更新につきものの画像データについて、紙焼ならスキャニングによりデータ化をして、デジタルデータの素材が揃ったところでその先で必須の、画像データのサイズや画質の調整に欠かせない関連機器やソフトは多岐に渡ります。

ここでもこれまで好んで使っていたあるソフトウエアが使用出来なくなり代替での運用に切り替えるなどしたため個々に検証作業が必要で、結局これも環境整備の一環という位置付けとなる次第です。

さて、2023年7月15日「南阿蘇鉄道」が7年3ヶ月ぶりで全線復旧しました。前身となる国鉄高森線は、豊肥本線とともに個人的に思い出深い路線なだけに、地震の惨状を伝えるニュース映像には胸が締め付けられましたが、同時に待ち構える苦難が忍ばれ「廃線」の二文字も頭を過りましたが、第三セクターに移管されて以降も、如何に愛されて地元に不可欠な路線であったかということが、その後の国の支援に繋がった事実からも十分に伺えます。

全線復旧再開後は上下分離方式に移管されているようですが、一方で豪雨災害に見舞われた「日田彦山線」は一部区間をBRT化して運行を再開しており、ここも味わい深い路線だっただけに線路の分断は腹立たしく残念でなりません。

線路は繋がっていてこそ意味があるその意義については、いみじくも東日本大震災が示した訳ですが、上下分離方式を積極的に活用する欧州と比較すると尚更に、どうも国内の交通行政には、公共交通体系を包括的に捉える重要性への理解の希薄さ・乏しさが目立ちます。

オール赤字路線の道路行政には一切文句が出ないのに、何故鉄道だけが叩かれるのか?鉄道路線は先人が苦労して築いた立派な資産ですので、前を向いて知恵を出し合えば大切な資産の活用法は必ず見つかるはずです。

鉄道好きの鉄道贔屓の思考であることをハッキリと申し上げて置きますが、このまま今後も人口減少が進むと、気がついたら阪急電車で宅急便を運ぶ時代が来るのかもしれません。

ボヤキが長引きましたが、ここからおよそ半世紀前となる「高森線」のお話しです。まだ蒸気機関車が活躍していた時代です。

当時在住していた熊本市でも熊本駅に行けば、側線に待機する優等列車の引き出しの主役は相変わらずC11形でしたし、C59形は姿を消してもまだC60形やC61形・鹿児島から時々やってくるC57形の他、機関区構内にうじゃうじゃと佇むD51形や9600形などを容易く愛でることが出来た時代だったのですが、C12形だけは「高森線」でなければ出会えませんでしたので、日帰りで良く出かけました。

本コラムでも度々申し上げているかと思いますが、その時代も自身の鉄道趣味の中心はやはり鉄道模型でしたので、それなりに鉄道写真も撮影していたとは云え、今とは大きく異なるフィルムカメラの時代ですので、撮影しようと思い立っても、手元の小遣いの中から汽車賃(もう死語ですね)の他にフィルム代や現像・プリント代も見込んで置かなければならず、模型代の捻出が最優先の自身にとっては勿論上等な一眼レフなど持てるはずもなく、家族で使っていた普及型のコンパクトカメラを持ち出しては撮影枚数を気にしつつの撮影が常でしたので、折角の良い時代を過ごして来たのに、今手元に残る「紙焼き」は残念な写真ばかりで後悔が募ります。

阿蘇外輪山の圧倒される原生林の車窓に塗れる豊肥本線の、33パーミルの勾配を上り切った先の「立野駅」(有名なスイッチバックはその先です)で、C12形を先頭に待機する「高森行き」の普通列車は大抵混合列車で、その郷愁をそそられる、ちょっと模型的でもある列車の佇まいには毎度感動を覚えておりました。

高森線には、雄大なアーチ橋「第一白川橋梁」であったり、(今回どのように復旧したのかまだ把握しておりませんが)トレッスル橋として山陰本線「余部鉄橋」の更新以降は最長となった「立野橋梁」など見所も多く、撮影地として魅力的な訳ですが、撮影旅行とは言えない自身にとっては、それらの鉄橋の勇ましい通過音であったり、隧道では全身にばい煙を浴びながらドラフト音を楽しむといった、ただただ乗車に浸り切る旅でした。

大正時代に施行された「第一白川橋梁」に用いられた鋼材は汽車製造(のちの「汽車会社」)の大阪工場で製造されたものだそうで、この度再建された姿が以前と変わらない美しさを維持してくれたことには本当にほっと致しました。





客車は、地方線区なので大好物のスハ32形系列との再会をつい期待してしまいますが、流石に山線なので、この時代もオハ35形系列のオハフ33形やオハ35形が運用されていました。

機関車が丸見えの、転落の予防策などどこ吹く風と言わんばかりのそっけない妻面に加えて、オリジナルが良く保たれたニス塗り仕上げのインテリアは、重厚な真鍮製のドアノブであったり、赤色の「便所使用知らせ灯」だったり、「緑7号」色のシートモケットだったり、木製の肘掛けだったりと、懐かしさが溢れます。

私が旧型客車の何処に最も惹かれるかというと、以前も申し上げたかと思いますが、天井に並ぶ灯具でした。

白熱電球を覆って眩しさを和らげる目的の(中には透明も存在していましたが)乳白のガラス製グローブには、様々な大きさや形状が存在し、それ自体楽しいものでしたが、灯具には通風機能も備わっていましたので、大抵意匠を凝らした金物の通風グリルが照明器具の根元にぐるりとあしらわれていて、幼少期からその実に工芸的な姿形に魅了されておりました。

元々旧型客車に備わっていた白熱灯の照明器具は、車体の延命工事に付帯する灯具の蛍光灯化で元の姿を失いましたので、今現役で僅かに残っている折角の旧型客車たちであっても、オリジナルを見ることは叶いません。それだけにもう少し画角を上げた1枚を撮って於けば良かったなと、手元に残る紙焼きを眺めてはため息が漏れてしまいます。

この日「高森駅」に到着したC12形222号機は、折り返し貨物列車を牽引して立野方面へ走り去りました。

この222号機は、現在JR九州の「小倉総合車両センター」にて保存されており、いつか会いに行きたいと思いますが、前照灯が砲弾形のシールドビーム1灯と、特徴的なので模型化されることもままあるので、事情が許せば私も是非入線させたい機関車です。



「高森線」には、左の写真に映る山並みの先へ進んで当時の「高千穂線」と結ぶ計画があって、この頃もそうでしたが、その後随分と長い間延伸のためのトンネル工事が続きましたが、元々この地の恵みの源でもある激しい湧水に阻まれて遂に工事を断念せざるを得なくなり、九州の山並みを東西に横断する第二のルートの実現には至りませんでした。

「高千穂線」の方は後に残念な末路を辿ることになりましたし、実現していれば今日の観光路線の一翼を担った可能性も予見されただけに誠に残念です。

新たに上下分離方式でスタートを切った「南阿蘇鉄道」ですが、その旧高森線を再び訪れる機会は当面無さそうですし、今後も遠くから暖かく見守り続けたいと思う次第です。
(2023.10.29 wrote)

 
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第68話【SLブームの頃】

無煙化を目指し1960(昭和35)年にスタートした国鉄の動力近代化計画は、概ね予定通りに進捗し(一部の例外を除いて)1975(昭和50)年には蒸気機関車の定期運用を終了しましたが、運行の終焉が間近となるにつれ、まだ蒸気機関車の走っていた沿線には撮影者が押し寄せ各地で社会問題化したり、時には低クオリティーが際立つSL関連商品が巷に溢れるなどして、純粋な鉄道好きの立場からすれば、決して有り難いことには思えなかった、今から半世紀以上前に巻き起こったあの狂乱のSLブームの頃のことを、ご同輩の皆さんなら良く覚えておいでかと思います。

一般的に確実に厄介者だったはずの蒸気機関車の、老体に鞭打つ最後の活躍と人知れず去り行く姿は、広く人々の人生と重なる共感であったりノスタルジーを刺激したのか、当時はSL以外の鉄道車両を平然と敵視するような輩まで出没し、鉄道趣味の範疇には収まらないカオスなブームだったと、今振り返っても強く思います。

理由の自覚も無く生まれついての鉄道好きで生きて来た自身のような者にとっては、実際ブームが加熱してピークを迎えた頃といえば、特甲線という恵まれた環境で大型機の最後の砦だった呉線の電化で、私の最も愛した大型パシフィック機C59形も淘汰され、一部のC62形(15・16号機)は軸重軽減を受けた上で津軽海峡を渡り、残りの1年を函館本線で過ごしますが、その函館本線で既に大人気となっていた大迫力のC62形の重連運行による急行「ニセコ」の山線走行シーンは、確かに魅力的でしたが、本来幹線の高速運転のために生まれついたC62形が、わざわざ軸重軽減の手当を受けてまで、山坂道で頑張るしかない姿は(私だけなのかも知れませんが)やはり痛々しさの方が勝りました。

このように狂乱のSLブームは、個々の機関車の本来働くべきフィールドから外れた後に加熱した出来事だっただけに、余計に自身は醒めておりました。

余談ながら、C62形重連運行で人気を博した急行「ニセコ」やその前の「ていね」の山線走行で度々話題になったのが「まるでジェット機」のようと賞賛された迫力のドラフト音でしたが、そのことをふと思い出した或る日、手元の天賞堂ダイキャストカンタム機のC62形を重連で走らせてみたところ、確かに連続的なジェット機のような音に変化して、サウンド面の新たな発見にちょっと嬉しくなりました。なかなか面白くお薦めの遊び方かと。

本日、再構築したはずのHP管理ソフトに不具合が見つかったため、急遽再度の調整を兼ねてコラムを更新しておりますが、昔撮影していた手元に残る紙焼の中から、SLブームに差し掛かる頃に、休日や放課後にいそいそと自転車で通った熊本機関区や駅構内で撮影した写真をデータ化してみましたので紹介します。



確か1969(昭和44)年の頃だったかと思いますが、同行の友人が当時熊本駅構内西側に位置していた熊本機関区の正門から、東((駅舎のある方面)を向いて撮影した写真です。右端で見切れた少年は中学時代の私で、恥ずかしいので顔はマスクしました。

写真のC11形78号機の他、当時の熊本機関区には10輛ほどのC11形が在籍していて、構内入換だったり三角(みすみ)線で運用されていて、夕刻の「みずほ」「阿蘇」「天草」などの側線からの引き出し仕業では、慌ただしく連・解結、前後退を繰り返して、小さい機関車ながらも毎度見飽きることのない不思議な魅力がありました。


駅舎のある東側から機関区の西側を向いて撮影したカットです。バス窓のキハ55形も健在の頃です。


存在感に圧倒される給炭塔を筆頭に、蒸気機関車運用に欠かせない設備の数々、奥には非冷房時代のキハ58形の姿もあり、懐かしい光景に溢れます。(この辺りは今、九州新幹線ホームの高架下になるのかと)


D51 255【熊】

59670【熊】

熊本在住時代の駅詣は、自転車に乗り出した小学校低学年の頃から始まって、小・中・高校と大抵は単独行動でしたが、中学でやっと二名の鉄道好きと出会えると、たまに「行くか?」と、それぞれ家のカメラを持ち寄り撮影しておりました。

当時使っていたカメラのブランドも機種も全く思い出せませんが、仲間もみんなファインダと実際の撮影画像が一致しないコンパクトカメラでした。

上に掲載した写真のD51形は私の撮影ですが、9600形の方はキャノンのコンパクトカメラを使っていた友人から頂いた写真で、レンズの性能差なのでしょうか、画像のシャープさが際立っていて、今も人気ブランドのアドバンテージが当時の写真にも見て取れることに感心致します。


鹿児島本線の熊本以南の電化工事が完了し1970(昭和45)年10月改正から開始された同区間のEL運用のために、20系PC牽引用に熊本以南の乙線の入線が可能でありAREBブレーキに対応する仕様となって登場したED76形1000番台と並ぶのは、こちらも増圧ブレーキに対応しヘッドマーク挿しを装備して20系PCの牽引で活躍したDD51形40号機。習熟運転の頃だったかも知れません。


この仕様のDD51形には、1965(昭和40)年10月の改正で西鹿児島-京都間に新設された20系PC寝台特急「あかつき」でお世話になりました。

(余談ながらムサシノさんがこの仕様のDD51形を製品化された時、もう欲しくて欲しくてたまらなかったのですが、どうしても軍資金に目処が立たず、泣く泣く諦めました)

熊本-神戸間を何度も往復した我が家でしたので、20系PCといえば、北九州在住時代も含めて「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「みずほ」と、長年ただ眺めるだけの憧れの列車だったのが、「あかつき」の誕生でようやく乗車の機会に恵まれることになりました。

「ゆうづる」用の増備車とともに初のAREB空気ブレーキ装置を搭載して当時新製された日車製のピカピカの客車は、20系PCデビューから7年が経過してもなお、立派な客車を目指した作り手の思いが伝わる想像を超えた乗り味で、本当になにもかもが鮮烈でした。

20系PCがAREBブレーキの真価を発揮して110km/h運転を開始するのはヨン・サン・トオの改正からですので、この時代はまだ翌朝の降車時刻にも余裕があって、寝台解体ショーをじっくりと堪能した後には、念願だった食堂車での朝食もゆったりと楽しめましたし、いつも通りに徹夜しての寝台特急を味わい尽くした一夜でした。

初乗車当日、長駆西鹿児島から「あかつき」を牽引し23時過ぎの熊本駅ホームに到着したDD51形の先頭デッキには、嬉しいことに真新しいヘッドマークが掲げられていました。

日頃からPC寝台特急を牽引する機関車に特に良く似合うと思うヘッドマーク(トレインマーク)なのですが、既存の客車でスタートした九州特急が颯爽と20系PCに切り替わって以降も、先頭で牽引する機関車には、ほぼほぼヘッドマークが掲げられていて、その後も寝台特急を象徴する佇まいとして定着したかに見えていたのですが、特に九州島内では、昭和40年代に差し掛かる頃からヘッドマーク無しで特急仕業に付く機関車が大半となってしまい、黒岩保美さんデザインの美しいヘッドマークを目にする機会も激減しておりましただけに、DD51形に掲げられていたこれも黒岩さんデザインで、この時が初見となった「あかつき」の美しいヘッドマークには、尚更に感動致しました。

再びヘッドマークの掲示が日常となるのは、SLブームの次に巻き起こったブルートレインブームの頃からだったかと思いますが、客車は既に専用機に依存しない14系以降が主役となっていましたから、趣味的にどうも機関車の方のありがた味が薄れて面白く無く、加えて列車の統合に伴う分割・併合組成の列車名に対応して、元の絵柄を組み合わせた構成で出現した新しいヘッドマークのデザインは、いかにも安易でグラフィック面でのクオリティーの低下が見て取れて個人的には頂けませんでした。


C57191【鹿】
どうした訳か不細工にも程があるテンダーが見切れたお恥ずかしいカットですが、ここも熊本駅の構内です。

191号機の鹿児島機関区所属時代ということは1971(昭和46)年の撮影になるのかと思いますが、ご覧を頂いたここまでの写真でもうピンと来られているかもですが、当時はまだ信じられないくらいに鉄ちゃんに寛容な時代だったなと当時の写真を見て改めて思います。

冒頭に掲載しました写真の機関区の入り口には、確か守衛さんも常駐していたはずなのですが、大抵は通りすがりの職員さんに「写真撮っていいですか?」と声を掛けるだけで自由にウロウロさせて貰えましたし、時にはキャブに招き入れてくれて、汽笛を鳴らさせてもらったりもしておりました。

今思うと、こちらも絶対に邪魔をしてはいけない・危険行為とならないよう常に気を配りましたし、職員さんの側も私たちのことを「ある程度鉄道に理解のある(珍しい?)連中」という見方をしていた節があって、お互いのリスペクトで奇跡的に成り立っていたのか、のんびりしていた当時でも、希有な関係性だったのかなと思います。

しかしSLブームが加熱すると遂に(最も恐れていたことでしたが)北九州でSLを撮影していた小学5年生の児童が列車に接触して亡くなるという痛ましい事故が発生したことで、程なく熊本機関区も一切立入禁止となり、そればかりかSLの撮影は許可制となって駅事務所での申告が必要となり、そこで書類を提出すると、撮影場所に指定されたホームの端の一角に連れて来られて「ここからはみ出るな!」と、けんもほろろに釘をさされる豹変ぶりで、これまでの折角の関係性のあっけない崩壊と、つかの間ながらも忙しく働く職員さんとのいちいち興味深い立ち話も楽しかった「機関区詣で」の終焉を悟った次第です。

そんなSLブームの加熱ぶりにいよいよ嫌気がさしていく中、たまたま父親が仕事の取引先で知り合った社員がSLマニアだと知ると会話の流れついでだったのか、撮影への私の同行を依頼したことがあって、父親の好意には感謝するものの「蒸気機関車の撮影が趣味」と聞いただけで、既にカオス状態にあるマニアの実態など知る由も無い親父に見る目などありませんから正直気乗りしなかったのですが、相手方も仕事上無下に断れるはずもなく、撮影ツアーは暫くして決行されました。

撮影当日にマイカーで現れたのは、30代くらいの2人組で、その日は三角線でC11形を撮影するということでした。

鹿児島本線が全線電化された後の撮影でしたので、分岐する「宇土駅」での大型機とのコラボも過去のものと、個人的にはもうそっとしておいてあげるべきと考えていた三角線と聞いて、嫌な予感しかしませんでしたが、道中のお二方の会話で、鉄道そのものには全く関心のない典型的な当時の「SLマニア」であることが濃厚となり、丁度たまたま475系が並走していたので、話を振ってみると型式すら知らなかったので、いよいよ憂鬱になるとともに、この連中がこの先一体どんな行動を取るのかという興味も湧いて参りました。

昔と違って「鉄道趣味」の奥深さが(うっすらとであっても)世間で認知され許容される時代に至った現代では、なかなかに想像し辛いことですが、当時は本当に鉄道好きと公言して置きながら、ひたすらSLのみを崇拝するという不思議な嗜好の趣味人が大勢居たことは確かです。

さて現地に到着すると、お二人とも上等な一眼レフカメラと交換レンズを携えて、好適な撮影ポイントを求めて、確かめも断りもしないままに私有地かも知れない山肌に分け入って、ポイントを決めると画角の邪魔になるのか躊躇することなく辺りの樹木の枝葉を切り落とすなど、あまりにあり得ないので一瞬諌めかけましたが、初対面のいい加減大人に意見するのも阿呆らしく、一味に思われたく無い一心でその場を離れました。

世間でSLマニアと揶揄された元凶そのものの、大人の悪いものを全部目撃した気分で、私もカメラを持ち出していたはずなのに、手元の紙焼に三角線のC11形の写真が一枚も残っていないことが、その最悪の一日を物語っています。


留置線で憩う、ED76形4号機【門】とED72形1号機【門】

豊肥0番ホームの東隣り、熊本駅の駅舎の南端に位置していた構内に、電気機関車の留置線があって、脇が歩道でアクセスし易く、居心地も悪く無かったので度々訪れ、時にはスケッチを描いて一日過ごすこともあった好きな場所でした。

ここでのお楽しみは、夕刻になると夜行列車の仕業に備えて始まる、SLで言うところのカマの火入れを鑑賞することでした。

ハンスコの確認・撤収を終えるとELの場合パン上げから始まる訳ですが、通電すると程なく整流器他・電気機器の連続音が耳に届くと、ヒュイーンとけたたましくブロアが立ち上がって、コンプレッサが作動を始めるという一連のサウンンドは、私が忌み嫌う狂信的なSLマニア達が「SLは生き物・人間のよう」と異口同音に訴えるその感性があるのなら、電気機関車に命が宿るこの大迫力の瞬間に何故心が動かないのだろうと、いつも思いました。

この頃のED76形はまだ運転席の側窓が、後年のED76形と異なり明らかに製造に手間のかかりそうなセパレートタイプの頃で、九州の赤いカマたちは共通してスカートの裾が丸められていたなどと、合理性を求める現代の機関車の造形では失われたこだわりが見て取れて、今見てもほっこりと致します。

天賞堂さんから(上の写真に写る)ED72形の試作形(1・2号機)の製品化がアナウンスされていますが、ムサシノさんなら話は別として、もうあの価格には付いて行けず、今回も見送るしかない現実が誠に残念です。
(2023.11.03 wrote)

 
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第69話【右手マスコンの理由】

関西ではTVのニュースなどで、2025年開催予定の「大阪・関西万博」が話題に取り上げられることがよくありますが、番組のMCや出演者が4〜50代と結構な年齢の場合であっても、誰も70年万博を知らないことが多々あって、70年万博には少なくとも3度は通い、当時のことを良く覚えている自分の老齢さ加減を今更ながらに思い知らされます。

そんな加齢を意識するに至る自身が、今や巷に溢れかえる鉄ネタのTV番組を視ていて、最近特にハテナと思うくだりに遭遇する頻度が増えたように思えて、このままで良いのかと気掛かりでならず、長年鉄道趣味を続けた身に染み付いた知見を、ボケる前のこのあたりで、記述して置きたい思いに至った次第です。

そのハテナと感じる最大のネタは、何故、新幹線電車の運転は、右手でマスコン(主幹制御器)、左手でブレーキハンドルを操作する仕様となっているのかという話題についてなのですが、その理由の解説が、専門家であったり鉄ちゃんや番組のアナウンサーなど、発信者毎に実に様々で、言葉足らずの面はあるにせよ、万博の話では無いですが経年の所為なのか、残念ながらいい加減な情報が垂れ流されているのが現状と申せます。

従って、ご存知の向きの皆様方に於かれましては、これからだらだらと続くであろう退屈な本回のボヤキ祭りのご一読には及びません。

その危機感を最も実感したのが、(1957年2月生まれの)私と同世代の卓越したセンスの持ち主のミュージシャンでありながら自身の鉄道趣味を活かした事業で多方面でご活躍の(1956年10月生まれの同級生である)向谷実さんが番組中に、新幹線電車が右マスコンであることの理由の解説に(多分ド忘れなのでしょうが)窮した場面を視聴した瞬間でした。

新幹線電車が何故右手でマスコン・左手でブレーキを操作するレイアウトとなったのか、そこに蒸気機関車の運転台の機器レイアウトが深く関わっていたことは、昔は誰もが認識した当たり前の常識だったはずなのに、その忘れてはならない認識が、どうやら時代の流れで希薄となってしまっていたようで、そこが今日の的外れだったり曖昧な解説に終始する事態を招いているように思えてなりません。

鉄道の動力源は人・馬から、先ずは蒸気機関車が主役の座に躍り出るのですが、一方で電力の普及とともに、路面電車や電動列車(電車)が誕生し活躍を始める訳ですが、路面電車や黎明期からの官営・私鉄の電車の運転台の機器レイアウトは今日に至るまで(ワンハンドルマスコン車は例外として)ずっと右手ブレーキ・左手マスコンのレイアウトであり、新幹線電車とは真逆です。

新幹線電車以外の(一先ず)電車が、右手ブレーキ・左手マスコンであることについても「細かな弁操作が必須であるブレーキの操作に(利き手の多数派の)右手を当てた」という、ちゃんとした理由があって、機器を設置する技術面のハードルも元々低かったこともあって標準化しますが、ある日の鉄ネタ番組で新幹線電車が何故右マスコンなのかについてを「新幹線には細かなスピードコントロールが必要なため右手になった」と公共放送のアナウンサーがいい放つのを目にした時は、何をどう調べたのだろう?どこかで混線したのだろうか?それにしてもと取材力の乏しさに呆れるとともに、鉄道少年・少女たちに誤った情報が植え付けられかねないと憂鬱になりました。

ではそろそろ本題に、新幹線電車が右マスコンとなった最大の理由は蒸気機関車にあると申しましたが、ご周知のとおり蒸気機関車の運転台では、電車でいうところのマスコンに相当するレギュレータハンドルを操作するのは右手です。

蒸気機関車の運転席の、運転に関わる機器配置は、例えばレギュレータハンドルなら、運転台と離れたボイラ上の先にあるドーム(蒸気溜)に内蔵された加減弁とロッドで繋ぐ機構のため、左運転台なら必然的に運転席の右寄りとならざる得ない事情が示すとおり、全て構造上に依存し、同様に大きなハンドルをぐるぐると回す(クルマで言えばトランスミッションが担う役割に相当する)逆転機(リバー)も、運転席正面窓下のスペースを占拠することになり、自弁・単弁のブレーキレバーは必然的にレギュレータハンドルの下に弾き出されますので、ブレーキ弁もレギュレータハンドル同様に右手で操作し、左手は逆転機の操作に専念することになります。

電化の進捗に伴って、蒸機天国の機関区にも電気機関車が進出しますが、そこに新製投入された国産電気機関車の運転台の運転機器の配置は、蒸気機関車の運転からの円滑な移行に配慮された右マスコン・左ブレーキという、同じ電動車でも機関区の外に置かれる電車とは正反対のレイアウトが採用され、これも今日まで続いています。

先端のレバーを握りしめバーハンドルの押し引きでシリンダへの供給量をコントロールしていた蒸気機関車時代の(腕力を伴う)右手は奇しくも、大きな歯車の溝に沿ってガチャガャと多段ノッチを操る電気機関車のマスコン操作にも適していた訳ですが、レイアウト上ブレーキレバーは左側へ移動しますので、左手での自弁・単弁の操作にはある程度の慣れが必要だったのではと拝察致します。

東海道新幹線の開業に際して、当時の国鉄が何を考えていたかと言えば、車輛の設計やシステムの成り立ちからも透けて見える通り、一にも二にも安全運行でしたので、誰に運転させるのかについても、在来の電車の運転士はさて置いて、当時、運転技能者として最も優秀と評されていたのが機関区に在籍していた機関士たちであったことから、中でも甲組と呼ばれた(懐かしいですね)エリート機関士たちを軸に積極的に選抜して新幹線電車運転士を養成したという、開業に臨んで下された新幹線電車ならではの英断は忘れてはならない史実と思う次第です。

安全を最優先に新幹線電車設計陣の下した回答は、SLであれELであれ元機関士たちが慣れ親しんだ、右手はレギュレータハンドル・マスコンの 操縦法に倣った「マスコンは右手で操作する」仕様でした。これが新幹線電車が右手マスコンになった最大の理由です。

「当時の国鉄は東海道新幹線の安全運行のために、当時最も優秀とされた機関士たちを運転手に養成した。彼らがクルマのアクセルに相当するレバーを操作していたのが元々右手だったから、新幹線電車は右がマスコンとなった」と、昔は聞けていたはずの、鉄道史上も重要でとてもシンプルな理由の説明を、したり顔の研究家や鉄博の学芸員の口から久しく聞けていないのは何故なんだろうと不思議でなりません。

マスコンとブレーキの配置については更に、戦後長らく途絶えていた内燃機関の研究が進むと、無煙化の一手として機関区にもディーゼル機関車が進出しますが、まだ出力が足らず首都圏など、都会の構内の入換用途の無煙化を主目的として開発されたDD11形やDD13形の運転台の運転機器レイアウトは、機関区に所属していたのにも関わらず、右手ブレーキ・左手マスコンのレイアウトでした。

機関区には気動車も投入されますが、運転台のレイアウトは、将来の電化を見据えてのことだったのか電車と同じ右手ブレーキ・左手マスコンでした。

機関区に居ながら入換用途の小型ディーゼル機関車が、右手ブレーキ・左手マスコンと電車や気動車と同じだった点は、(ここは自身の類推ですが)当時、前後退・加減速を繰り返すハンプ作業がマストだったといえる入換用途が関係していたように思えます。

というのも、蒸機運行の置き換えを目的として続々と登場するDD50形・DF50形・DD51形など、幹線・亜幹線用ディーゼル機関車の運転台レイアウトは、電気機関車と同様に右手マスコン・左手ブレーキで登場しましたので、運用形態や背景に応じて運転機器のレイアウトを柔軟に変化させていたことが伺えます。

電気機関車と違って、その後の新製ディーゼル機関車は電車と同じ右手ブレーキ・左手マスコンのレイアウトに収斂しますが、DD51形の置き換え機として登場したDF200形までもが、電車と同じ右手ブレーキ・左手マスコンだった点はなかなかの驚きでした。

こうなると新幹線電車と電気機関車に残る右手マスコン・左手ブレーキスタイルの今後が気になるところですが、東海道新幹線の黎明期に実施されていた、駅進入時は、ホーム手前で一旦30Km/hまで減速して、ホームに進入すると60km/hまで再加速した後に停止するという手順も、もしかしたら左ブレーキ操作への配慮を含めた対応だったのかも知れませんし、結果的にですが、停止位置表示板とブレーキハンドルの位置が近接することも、人間工学的視点に立てば案外合理的な事なのかもなどと、楽しい外野の妄想は尽きませんが、恐らくこの先も変更されることは無さそうに思う一方で、気がついたら自動運転の時代がやって来るのかも知れません。


汽車を降りると必ず立ち寄って煤で汚れた顔を洗った(一昔前は大抵の駅ホームに設置されていた)手洗い場は、貧乏学生の汽車旅にとってもタダで水分補給が出来る有り難いオアシスでした。このような懐かしい設えの記憶もまた後世にうまく伝わって欲しいものです。
(2023.11.04 wrote)
【追記】
「碓井峠鉄道文化むら」でのEF63形の運転体験をされたことがお有りのコラムをご一読頂いたお客様よりご連絡を頂戴し「ブレーキは右手で操作するよう指導された」という、入り口としてもなるほどと理に叶う、大変興味深いお話しを伺いましたので、追記して置きます。

度々ご連絡を下さるそのお客様とはDF200形の運転機器配置の話しでも盛り上がりましたが、動力分散方式が主流の我が国で今や絶滅危惧種的立場にある機関士の将来に渡る養成をどう捉えるのか?、本文記述中の考察からうっかり抜け落ちていたリクルート面の要素が大きいことについてもハッと気づかされた次第です。

鉄道好きにとってあまりの常識ネタでの暑苦しい説明に終始した本回でしたので、アップした後に段々と「余計な話だったかな」と不安になりましたが、お楽しみ頂けたご様子の連絡にホッとした次第です。

本コラムをご一読頂いたそのお客様も「(右マスコンの件) 鉄道ファンのイロハのイ」と誤情報の横行に呆れておいででした。
(2023.11.10 wrote)

 
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第70話【阪神タイガース】

実はコラム第68話・第69話ともに公開する際に、収まった筈のトラブルがまた発生して、ここ数日修正を強いられておりましたことで、先に記述していた日付と実際の更新がズレてしまいましたことをお詫び申し上げます。

修正作業の最中、プロ野球日本シリーズを制した阪神タイガースが遂に38年ぶりの日本一に返り咲き、今年は兎に角これぞプロ野球の醍醐味と思えるゲームが最後まで続いて、お陰さまで久々にストレスフリーのシーズンを過ごさせて頂きました。

日本シリーズの開幕に合わせて阪神電車が発売した「なんば線シリーズ記念切符」も即完売したそうですが、かつての阪急・阪神・南海・近鉄・西鉄・国鉄と、更に持ちたくても持てなかった京阪の例など、鉄道事業者が球団経営にしのぎを削った時代は最早昔話となり、今や電鉄系は阪神・西武の2球団のみというのは鉄ちゃん目線では寂しくもありますが、移り変わる時代に対応した公共交通を担う鉄道事業者の健全な選択であった訳で、それはそれとして、時折目にするJR西の社長会見時の発信には、私だけなのかも知れませんが、本業での不祥事の収まらない背景も手伝ってか、いちいちどこか危うく感じられて仕方ありません。

この事について語りだすとまた止まらなくなりそうなので、今回はこのくらいに致しまして、自身も山積する本業に戻ります。
(2023.11.07 wrote)

 
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